『泣く理由』

もし【超−1】が怪談一般の公募大会であったならば、この作品に対する評価は相当高いものになっていた。体験者個人の心に宿った恐怖に近い不安感を的確に表現しきっていると感じるところもあるし、とにかく心象風景の描写がピシッと決まっているところにリスペクトできるものを大いに感じた。だが翻って、実話怪談としてこの作品を見た場合、怪談として高く評価した部分が全てマイナス評価に転じることになる。
一番問題視されるのが、終盤にある体験者の講釈部分である。実話に最も必要なことは、怪異の事実関係を的確に表現することに他ならない。いかに優れた文章であっても“あったること”を疎かにした書き方では、実話怪談としては評価は低い。この作品の場合、結局、電車内での怪異表現は良く出来ていると思うのであるが、駅構内で親子の霊体が自分に憑いてきている事実を確認してからの出来事が全てカットされてしまって、代わりに個人のツボにはまった不安の根源について滔々と論陣を張って講釈してしまっている。読み手が“実話”に求めているのは、憑いてきた霊体と体験者の状況は最終的にどうなったかという“事実”であることは言うまでもなかろう。その部分が完全に飛ばされてしまっているのでは、読み手としては、やはり未完結のまま中途で打ち切られたという思いの方が強い。要するに“あったること”が作品中で意図的に全て展開しきらないという中途半端な印象だけが残ってしまったと言える。
そしてもう一点、この中途半端ぶりの象徴が“あめ玉”の存在である。ポケットの中にあったあめ玉に対して、体験者は記憶にないものとして怪異のような扱いをしているのであるが、これが最後まで結論づけられないままで終わっている。そのために読み手からすれば、結局あめ玉は怪異の重要な物証であったかの判断すら出来ない。それどころか、このあめ玉の怪異に対する位置付けそのものが、実は体験者の主観の産物に他ならないのである。あめ玉と赤ん坊との関連付けについては、電車内で初老の男(これもおそらく生身の人間ではない可能性が高い)が赤ん坊の口に含ませたと見たことから派生しているのであるが、ところが本当にあめ玉を与えたかは体験者自身も明確に見たとは書かれていない。つまりあめ玉の怪異に対する位置付けは、体験者の憶測からのみ始まったものであり、もしかすると怪異とあめ玉は全く関連性のないものである可能性があると言わざるを得ない。もっとはっきり言ってしまえば、体験者の主観の世界でのみ、あめ玉は怪異の重要なファクターとして成立していると指弾されても致し方ないと言えるのである。
結論を言ってしまうと、この作品は、客観的に見て怪異は起こっているものの、事実とは異なる体験者の主観的解釈が展開されている可能性が指摘できる内容になっているということである。しかもその主観的な部分が怪異の中心的な役割を担っているとして書かれており、その点だけで言えば、体験者の思い込みで書かれた体験談の域を出ないレベルであり、実話怪談の冠を戴けるような作品ではないとも言えるかもしれない。
もしこの駅構内での遭遇譚の結末がきちんと書かれ、さらにはあめ玉の出所や怪異に対してどのような絡み方になったかが最後まで書かれていたら、非常に興味ある怪異と認めることができたかもしれないし、客観的に見てしっかりと事実が書かれた内容であると判断できたかもしれない。しかしながら、途中で打ち切られたように事実関係が明確にならない部分がある限り、この怪談は“実話怪談”としての信憑性に欠けるという判断である。“実話”である限り、最低限度の約束として事の顛末が全て提示されている必要性があるだろう(超常現象であるから、それが胡散臭い内容であったり、あるいは説明不能な内容である可能性はある。それでも“あったること”が途中で切られるよりましである)。たとえ垣根は低くなったとはいえ、実話怪談と実話系怪談とでは似て非なる部分が存在するということである。
作品としての評点であるが、個人的には、怪異の肝の部分に主観が大きく入り込んでいるために事実誤認が生じている危険があり、正直なところ、実話怪談としてはいわゆる“見える人の電波な話”に近いという印象であり、実話として成立していないという判断である。しかしながら純然たる怪談として見た場合、全く破綻のない作品とも評価しうるため、最低点にまでは至らずというところである。
【−4】