『居候』

完全な“投げっぱなし怪談”の形式を取っているが、内容的にはまった似て非なるものになっている。はっきり言えば、“投げっぱなし怪談”とするための要件を全く満たしていない内容を無理やりはめ込んだだけの作品であると断じたい。
“投げっぱなし怪談”として成立するための第一の条件は、いわゆる“通り魔的”と言うべき怪異であることである。何らかの予兆もなく突発的であり、またそれが起こった原因も目的も全く不明であり、おそらく一回性のものであろうと推測されるような怪異でないと、“あったること”の提示だけでは終わらないわけである。それこそ「扉を開けたら、そこにとんでもないものがいた」というような感じでないと、投げっ放した書き方にしようがない。ところが、この作品の場合、極端に短いのであるが「心霊スポットへ行ったら、家に女がいた」という内容であり、この心霊スポットと女との間に因果関係があることが暗示されているように読み手に感じさせることで、怪異であると認めさせようとする書き手の意図があると言える。
さらに言えば“投げっぱなし怪談”の第二の条件は、一瞬で超常的であると誰もが認識出来る怪異であることなのだが、この要件もこの怪談は満たしていない。むしろこの家にいた女の正体は“心霊スポットから帰ってきた”という原因があって初めて超常的な存在であるとみなすことになる。つまり心霊スポットと女とが因果で結ばれていることが明らかにならない限り、本当に怪異であると認めることが出来ないのである。
結局のところ、この作品では、心霊スポットであった出来事、突然現れた女の容姿や状況が書かれてこそ、怪異であるかの判断を読み手が下せるのであり、書かれただけの情報で怪異であると判断することは、実はほとんど不可能なのである。一瞬芸の勢いで本物らしく見えるのであるが、しっかりと精査すれば、心霊スポットと女の関係も分からず、それどころか女が霊であるかすらも分からないのである。
“投げっぱなし怪談”は、信じる信じないはともかく、“あったること”として書かれた内容だけで怪異であると認定出来るだけの事柄がないと成立し得ないのである。この作品では、与えられた情報だけでは様々な反証が予測されるため、怪異が成立しているとは全く言えないと指摘出来る。おそらく体験者自身は怪異であるという確信を持つに至った何かを感得しているのだろうが、それが読み手に伝わらなければ、全てはただの与太話に堕するのである。怪異の本質を見抜けなかった故の致命的失策であると言える。
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