『鬼』

怪異の本質を完全に見誤ったまま構成を展開したために、非常に歯切れの悪い内容になってしまっている。
この作品の怪異の中心は“鬼の目撃”に他ならないのであるが、タイトルと冒頭の部分で全てネタばらしをしてしまっている。ここまで見事に結末をばらしてしまっているために、展開の意外さが多少あったとしても、驚愕というレベルにまでは達しないだろう。それがたとえ“麻雀をしていた”としてもである。
おそらく書き手が怪異の中心に“麻雀していた”ことを据えたのは間違いないところである。鬼が4体いるにもかかわらず、その強烈なあやかしの容姿に関する記述を完全にすっ飛ばしており、むしろ丁寧に“四暗刻”狙いの牌があった事実をクローズアップし、さらに締めの言葉に役満しそびれた鬼に対する同情まで書いている。そこに大きな違和感を感じるのである。詰まり体験者である先輩が鬼の存在について恐怖や驚きといった感情を持っていないとしか思えないのである。自分が住む部屋の隣でとんでもない妖怪を見てしまったのである。恐怖が先立って当然、即座に引っ越しという展開でもおかしくないだろう。それが暢気に「襖を開けなかったら、上がっていたかな」というセリフでは、鬼の目撃という衝撃的な怪異を蔑ろにしているとしか見えない。そのあたりが、鬼の容姿について敢えて突っ込まなかった理由でもあると推測する。
しかもそこまで麻雀にこだわる体験者でありながら、1週間も隣の部屋から聞こえてきた異音の正体が“牌を打つ”音であることに気付かない。はっきり言ってしまえば、この音の正体を敢えて隠して書いている(麻雀に興じていると思しき人間が牌を捨てる時のあの音に気付かないのはある意味怪異に近い現象であると思うわけだ)こと自体が、書き手が麻雀にこだわっている証左であり、そしてこの作品の構成が非常にあざといものであるという印象に至った原因である。つまり作為的に“あったること”を歪めているのではないかという不自然さがあり、それが怪異の本質を見定め間違ったと感じる根拠にもなっている。読めば読むほど意図的なミスリードであるという疑いが鎌首をもたげてくる構成なのである。
作品としては面白可笑しく良く出来ていると思うが、しかし怪異の本質を射抜いていない限り、やはりどこかに不自然さがつきまとうのである。“怪異の本質を見定めれば、自ずと書き方が決まる”わけであり、それに反した書き方をすれば“実話怪談”として違和感が生じてくるということである。怪異に対して忠実ではないという疑念がある以上、評価は相当低くさせていただいた。
【−4】