『一人遊び』

非常にウエットな内容を含む怪異譚であるが、体験者である史絵さんの心理的変化にかなりの飛躍があるために、初読の際、最も重要な場面で引っ掛かりが生じてしまった。一番疑問を感じたのは、何故子供の霊が母親である藤田さんではなく、史絵さんにしがみついたかという点である。この部分だけが唐突であり、最後の締めくくりとして母と子が和解に似た状況になったことが描かれていても、何かしっくりとはいかないものを感じた。
実はこの不可解な状況を解く一番のカギは、藤田さんの「史絵ちゃんとまちがえたか」という言葉であり、ここに至るまでの中でこの言葉の真意が明瞭に分かるだけの内容がなかったのが、違和感の正体であると思う。精読すると、子供の霊が史絵さんとコンタクトを取りたがっていて、それが母親に甘えるような仕草や行動であると解る部分が散見出来る。おそらく現在の史絵さんと娘の年齢が、藤田さんが子供を亡くしたのとほぼ同じぐらいであり、今まで子供の気配がない家にいきなり玩具などがあったりしたために霊が行動したのだろうと十分推測可能である。それ故に霊は、自分が亡くなった当時の記憶によって、史絵さんを母親と間違えて寄ってきたのだろうとも考えることが出来る。
ここまで見事な伏線が配置されていたにもかかわらず、何故それが結末のシーンとすぐに結びつかなかったのか。思うに、霊の出現という謎の提示から、その霊の出自が判る解決部分までの間が詰まりすぎて、読み手が内容を反芻する前に答えを出してしまったのではないだろうか。具体的に言えば、史絵さんが霊を藤田さんの子供であると察したと分かる記述、史絵さんが怪異体験をしている時期の藤田さんの直接的な言動、怪異が発生した時期や最後の場面に至るまでの経過時間など、そのような読み手に考えさせるための示唆が欠落しているのである。要するに、読み手が感動を醸成するためのディテールや時間が足りなかったのである。
ウエットな感情を呼び起こすには、怪談でなくても、ある程度の“間”が必要である。この部分がなければ、登場人物だけが感動を共有するだけで、読み手はただそれを茫然と眺めているしかないのである。コンパクトにまとめようとし過ぎた分だけ、残念な結果になってしまったと言えるだろう。
【+1】