『開けてください』

起こっている怪異そのものは非常に不思議、生霊のようにも見えるし、幽体離脱と解釈しても良い、さらには物の怪が化かしたとも、いわゆる神隠しの寸止め現象だったとも考えることができる。また春奈さんが和馬君を追いかけている状況が手に取るように分かるため、緊迫感を生み出すことにも成功しているし、また記録性の上でもなかなか貴重な怪異体験であると思う。
ところが、その急転直下で“事件”が解決してから以降の展開は、打ってかわってグダグダと言わざるを得ない。消えた和馬君が“いつの間にか戻ってきて”保育園で寝ていたという事実、本人に問い質しても要領を得ない展開、そしてパジャマを脱がせた時に気付いた謎のバツ印。これらはまさに“あったること”であり、それ以上でもそれ以下でもない記録であり、動かすことが出来ない内容である。だから、不足感があり謎が残るにせよ、致し方ない事実である。
しかし問題なのは、怪異の目撃者である春奈さんのその後の態度である。無事に和馬君が発見されたという現実を受け入れるのは当然であるが、反対に、彼女だけが体験した“事実”を全否定しているのではないかと勘繰りたくなる部分がある。つまり和馬君が侵入していった家に関しての言及が、和馬君発見後全くなされていないのである。春奈さん自身、あるいは採話した書き手自身が直接その家を訪ねよというわけではない。彼女自身にとっての“あったること”を、彼女自身が検証場面となる部分で持ち出してこないことが問題なのである。あれだけ必死になって追いかけていった事実を春奈さん自身が封印してしまっている、即ち怪異ではないと暗に認めているように見えるのである。もし仮に最後のところで春奈さんの証言として家についてほんの僅かでも触れていたら、一気に怪異が揺り戻され、“あったること”としての信憑性を持って浮かび上がってきたのではないだろうか。「何となく丸く収まったけれども、でも…」という不可解さを醸し出すことが出来たのではないだろうか。
怪異の特殊性からプラス評価にはしたいが、怪談の持つ“怪しげな不安”というものを生み出せなかった点は見逃せないと思う。
【+1】