『お土産』

怪異が起こっていることは確かだけれど、話の展開そのものに非常に大きな違和感を覚えた。一言でいってしまうと、怪異におかしな意味づけをしてしまって、無理やり押し込めてしまったという印象なのである。
カナダで起こった怪異であるが、体験者は、現れた者たちが自分が聞いた悪口の対象者であると判断しているが、その根拠が、隣室の人と思しき人物を見出して自分で悪口との関連性を勝手に導いただけ。要するに、思い込みが先にあって、彼らの「違う」という叫びをそれに沿って解釈しただけなのである。隣室の人物であるかも実は定かではなく、他の顔については誰であるかも判らないにもかかわらず、聞かされた悪口の相手であると断定してしまっており、ある意味、根本的に誤っていると指弾されてもおかしくないレベルと言わざるを得ない。
さらに、帰国後のカーテンの怪異についてもそれ自体は怪現象であると言えるが、それがカナダでの出来事とリンクしたものであるという根拠は皆無である。しかし体験者はそう考え、その怪異を起こしただろう相手に向かって柏手を打ってみたり、終いには「帰れ」とどやしつける。やっていることの正否はともかく、なぜカーテンの揺れという現象から、カナダで見たあやかし達の仕業であると判断したかの理由が示されていないために、体験者の行動が突飛に見えてならないのである。
体験者の怪異に対する姿勢や解釈において、その考えが飛躍しすぎていると読み手が感じた時、一気に信憑性が低くなってしまう。怪異についての整合性に欠けると、下手をすると“あったること”の怪異までが体験者の妄想レベルにまでなってしまう危険があるのだ。この作品も、体験者の勝手な思い込みで話が展開しているために、どんどん事態が胡散臭いものに変化しているように見える。体験者が直感的に受け止めた内容には、それなりの根拠があるはずである。その部分を掘り下げて確かめないと、体験者の話を聞いたまま書き綴ってしまうと、この作品のような主観まみれの判断がまかり通ってしまって、読み手を置いてけぼりにしてしまうのである。
怪異が起こっているとは思うが、読み手を納得させるだけの説得力を持たない内容ということで、限りなく低い評価とさせていただいた。
【−5】