著者別短評の5

No.21
3月下旬に7作を一気に投稿。この書き手の一番の問題点は、怪異を客観的なものとして読み手に納得させるだけの内容が足りないということである。単なる情報不足であればまだしも、客観的に“あったること”と認める材料がない代わりに、どう考えても整合性を疑うような物証を出してきたり、あるいは主観目線で語られる自説などで話を固めてしまっている。これでは書き手に対する信用性は皆無と言われてもやむを得ないだろう。まず講評を読んでみて、読み手がどの部分に信憑性の疑念を持ったかをしっかりと受け止めるべきであると思う。信じられない存在、あり得べからざる現象を取り扱う分野であるからこそ、逆に実話怪談は客観性を重んじる文学でなくてはならないのである。書き手の主観だけでは成立し得ない部分が大きく横たわる文学なのである。そこの改善なくしては、決して評価を受けることは出来ないだろうし、書き手としての成長もなかろうと思う次第である。真摯ではあるが、読み手と共有できる、怪異に対する感覚が必要であるだろう。

No.22
ほぼ期間中満遍なく5作を投稿。とにかく並べられた作品がいずれも高水準であり、作品集の中核となりうるだけの質の高さであると断じる。特に怪異と共に描かれる体験者が見事に造形されており、怪談としてだけではなく読み物として十分耐えうるレベルであると感じる。また5作品とも“人間の暗部”とも言うべき部分をえぐり出しており(これは筆力の賜物でもあり、そして何より取材力の結晶であるという意見である)、この書き手がテーマを持って投稿作品を絞っていることを窺わせる。明確な意図を持ち、全てにおいて成功させる力量は、今大会の投稿者の中でも群を抜いており、他の書き手とは格の違いを見せつけていると言ってもいいかもしれない。完璧とまではいかないので、手放しの賞賛ではないが、完成度の高い作品を堪能させていただいた思いでいっぱいである。

No.23
3月上旬に一気に9作を投稿。自分語りで延々と怪談とは関係のない無駄話を続け、出てくる怪現象は下手をすると本当は錯覚や勘違いではないかというレベルのものが大半という、まさに絵に描いたような失敗作が並ぶ。いわゆる“語り”を意識しているのかもしれないが、冗長極まりないだけであって、実際の中身が全く伴っていない(文字で書いたから見にくくなったというのではなく、間違いなく語って聞かせたとしても全然評価されないレベルで終わってしまっているだろう。それほど酷い内容である)。個人の体験が中心であるので、ある意味自己満足を体現しただけの作品を披露しただけと言ってもいいかもしれない。ひたすら他の書き手の作品を読み、文章を書くとはどのような作業であるのかをよく観察していただきたいと思う。作品を評価するに及ばないものということで。

No.24
2月末頃に21作をまとめて投稿。非常にムラの激しい書き手である。しかもこのムラが書き方ではなく、怪異の扱いにおいて噴出しているために、不安定感がつきまとっていると言える。評価の高い作品は、まさしく正統派の実話怪談の体を成しており、怪異の本質を掴んでしっかりとそれを表現することに成功している。しかし中レベルの評価の作品になってくるとその本質の把握がかなりあやしくなっており、バタバタとした展開で、最後まで上手く怪異の表現が維持できていないと思う作品が目立ってくる。さらに低評価になってくると、怪異そのものを誤った方向へ引っ張ってみたり、明らかに違和感を覚えるレベルになってしまっている。つまり、書き手自身がしっかりと怪異を掴んでいる場合とそうでない場合が明確に存在しているように見えるのである。この失敗とも言える作品が複数あるという事実は、この書き手の弱味であると言えるだろう。様々な怪異のパターンはあるが、それらのどこに本質があるかを見極める力を養うことが急務である。その部分で安定感を増すことが出来れば、筆力はそれなりにあるので、自ずと力量がつくものと思う。


……ということで、今年の著者別短評は終了。今年は正直なところ高水準の作品が少なく、集計結果で上位にあっても苦言を呈することになってしまった書き手が多くあった。致し方ないと言えば致し方なく、である。全体的に言えるのは、怪異そのものが書けてもそれに魂を吹き込むことが出来ない、リアリティーや信憑性を持たせる部分で脇の甘い作品が多くあったという事実である。必要条件は満たしても十分条件が満たせないために、何となく薄っぺらな怪異譚で終わってしまっている。表記の方法、情報の詳細などで読み手を納得させるだけの信憑性を獲得しないと、実話怪談の看板の下にあって「本当にあった話です」という決めゼリフだけではもはや殆どの人を頷かせることは叶わないのである。
特に文字によって刻印された作品は、読み返すことによって強制的に精査される宿命を持つ。勢いだけでフォローできるような次元ではないのである。小さな綻びだけでもきつく糾弾される危険を常に持っているのである。実話怪談も文章で表現される限りにおいては“文芸”であることを忘れないで欲しいと思う次第である。