『鋏』

内容と展開において既視感を覚えるほどの、典型的なパターンの怪異である。また、その怪異を見事なまでにステレオタイプの構成で書いている。文体もそつなくきちんとした印象であり、良くも悪くも普通というのが結論である。むしろ、その余りにもはまりすぎている感が面白味を薄くさせて、可もなく不可もなくというより、ありきたりな紋切り型に近い作品という評である。破綻はないが、早い段階でオチが見えてしまった次第である。
ただこの作品には大きな問題点が存在する。学校に現れた女の子のあやかしが、何故交通事故死した少女と判断出来たのかの説明が全くつかない。体験者自身がそうであると確信しているようであるが、その根拠となるべき情報が一切作品の中にない。ランドセルだから小学生であることは判るが、それ以外に彼女が当日ダンプカーに撥ねられて死んだ本人であるという状況証拠はないし、体験者と顔見知りであるという記述もない。当然ながら、鋏の音と交通事故などを結びつける接点もない。要するに、体験者の思い込みを聞いたそのままに書いただけの内容であるのは、想像に難くない。
体験者の言であるというだけで無批判に体験談に盛り込むという発想は、危険極まりない。特に“あったること”の証言以外の内容、体験者の解釈は下手をすると怪異の本質を見定め誤る危険がある。体験者だからといって、その怪異の現象自体を明瞭に理解し、その本質を把握しているとは限らない。むしろ突発的な事態に陥って、最悪の場合、自分自身が見聞きしたはずの現象そのものを勘違いしているかもしれないのである。とりわけ、この作品における体験者の解釈は、客観的になればなるほど全く証拠のない認識、おそらく完全な誤解に基づくものであると判断出来る(あるいは、事故と怪異を強制的に結びつけることで“もう二度と起こりえない怪異”であると無理に思い込もうとしたとも推測出来る)。書き手の役割は、単純に聞き書きすることではなく、ある程度状況を整理してまとめ上げることである。例えるなら試合におけるレフェリーの立場であり、観客(読者)を納得させ、且つ選手(体験者)のプレーを円滑に展開させることが出来てこその仕事であるだろう。
この作品では、解釈という最後の部分で強引な流れを作ってしまったため、それまでの怪異そのものにも相当なダメージを与えていると言ってもおかしくない。とってつけたような因果関係を引っ張ってくるのは、現代「実話怪談」の時代以前の、予定調和的な脚色が当然の如くふんだんに盛られていた頃(具体的に言えば昭和後半期の、ジュブナイルを中心に怪談話が展開されていた頃)の“実話”の姿を想起させるものである。つまり、現代においてはアンチテーゼとして否定され、御法度となっている手法の典型であると言えるわけである。それ故に、このような強引な解釈を読まされると、今までいくら大向こうを唸らせるような怪異譚であっても一気に興醒めしてしまうのである。
構成がどうしても紋切り型である点、そして強引な解釈で閉じられている点を考えると、やはりかなりのマイナス評価となってしまうところである。もう少し切り口を変えないと、実話の場合、既視感が強い作品はいくら文章が良くても低評価となってしまう。
【−3】