『風邪』

おそらく「語り」でサラッとやってしまえばそれなりに納得させることができるが、文字として残されて読み返すことが出来る状態では、どうしても弱さを感じてしまう作品である。
「語り」で練られる文章と、「読み物」として練られる文章とでは、やはり質が違うという意見である。一瞬一瞬で言葉を消化してしまわねばならない「語り」の文は、どうしてもくどい説明や精緻な描写をやってしまうと、要領が把握できなくなって理解不能に陥りやすい。だから要点だけをかいつまんでざっくりとした内容で印象付けるような文で語り続けないと、最後まで聞き手を引っ張ることが出来ない。逆に、読み手自身が言葉を目で追って解釈しながら内容を展開させていく「読み物」の場合は、ある程度の説明がしっかり書かれていないと何となく消化不良を起こす。それぞれの長所と短所を理解した上で活用しないと、それぞれの特性を活かすことは難しいと思う。
この作品の場合、怪談として最も重要な部分である怪異そのものの描写が、限りなく贅肉を落としてしまって、殆ど箇条書きに近い説明で終わってしまっている。これがもし「語り」であるならば、この骨になる文章だけがしっかりと聞き手に伝わり、怪異があったことを理解させることができれば、それなりに怪異譚として成立するかもしれない。しかし「読み物」である以上、これだけの簡易な説明だけでは、読み手は怪異を認識する以前に内容を読み終えてしまうだろう。目で文字を認識して読む場合、ある程度の長さの情報量が必要である。耳で聞く場合は直感的な理解が可能であるが、目の場合はそうはいかない故に、ある程度の分量を読ませて内容を認識させるのが常套手段であると思う(一語で決めるインパクト勝負のケースもあるが、その場合、一瞬で読み手が理解できるかの部分に創意工夫が必要であることは言うまでもない)。この作品の場合、怪異の内容についての記述が短文で終わってしまっているために、読んでいて余りにもあっけないのである。その点に、怪談としての弱さが出てしまっていると言える。(「語り」についていえば、さらに聞き手の反応に従って伸縮自在に話を繋げていくことも可能である。完全に固定された形でしか提示できない「読み物」にはできない利点がさらにあるわけである。)
オチの一文に内容を集約させようという意図は見えるのであるが、怪異譚である以上は、その怪異の内容が充実していなければ本質から外れてしまう危険がある。しかもこの作品の場合、怪異も弱ければ、オチも意表を衝くような内容ではなく、予定調和的な範囲でこぢんまりと収まってしまっている。要するに、全体的に中途半端な笑いで終わってしまっているのである。さらに言えば、何となく中途な印象が怪異と風邪との因果関係が、果たして体験者の言っている通りなのかという疑念にも繋がっているだろう。
おそらく酒席などで軽く話したら受けるとは思うのであるが、こうやってしっかりとした文章で構えた状態で読むには、余りにも内容が貧弱であるという意見である。怪異の内容を要領よくまとめ、さらに風邪との因果関係を明確にしないと、ただ単にオチ一文だけで支えられているという軽い印象しか持てない。難しい素材ではあるが、難しいからこそ“あったること”に忠実に文をまとめるしか打開がないような気もする内容ということで。
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