『寿司電車』

仮にこの作品が創作であったならば、これら一連の現象が怪異であると認めることになるだろう。しかし実話である限りにおいては、これらの現象が全て実際に起こった内容であるとしても果たして怪異と言えるかどうかには大きな疑問符が付く。結論から言えば、これが創作と実話の決定的な読み方の相違であると言えるかもしれない。
創作怪談の場合、通常では起こりえない現象がストーリーの中で起こった場合、それらは結果としての怪異に結びついていくことになる。要するに創作怪談の場合、前提として怪異が生じることがあらかじめ決められており、そのストーリーの中で起こる現象は有機的に最終目的である怪異に結びつけられることになる。最初から怪異となることを条件付けられて、不思議な現象は積み上げられていくのである。
この作品で言えば、客が殆ど入らない状況、無人のボックス席に誰も注文していない寿司が届けられる、店長がこの現象を見て舌打ちをする、といった現象が怪異を誘導する内容となるのであるが、あらかじめ怪異で締め括られるという前提があれば、これらは全て霊的なものの仕業であり、それが評判を落として客の入りを減らしていると類推させることが可能になるわけである。最初に結論が決まっているから、それぞれの現象がおそらく怪異と結びつくことになればそのような解釈が可能であろうと、読み手が勝手に思い込んでくれるわけである。
ところが実話となれば、これらの現象が果たして“超常的”であるかを鵜呑みにすることは難しい。むしろ現象としては偶然の産物であり、実は怪異とは全く関係のない単なる思い込みである可能性が浮上してくるのである。創作のような予定調和を主張しても、それはあくまである種の「仮定」のレベルの話でしかない。実話の場合、客観的に誰もが疑いのないような超常現象であることを裏付けることが求められる。特に昨今の実話怪談の場合、厳密にそれが要求される。この作品で言えば、無人のボックス席に寿司が届いたのが電気系統の故障であったという疑いは拭えないし、店長の舌打ちも単なる商品のロスに対する苛立ちだったかもしれない。さらに客の不入りも、時間が書かれておらず、どこまで信用に足るかは不明である。
創作であれば全てが怪異を示唆するものとして許容されることになるが、実話は逆に前提として「本当は怪異とは違うのではないか」という否定的な切り込みからスタートすることが普通である。そのような態度がデフォルトであるが故に、実話怪談は誰もが納得しうる物証を提示して、怪異であることを自ら立証することが暗黙の絶対条件として課せられているのである。結局これらの必要な部分を欠いては、実話怪談のハードルはクリアできないということである。またたとえ怪異であったとしても非常に貧弱な内容であり、怪異そのものの希少性の面でもかなり見劣りする内容であると言えるだろう、
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