『赤いランドセル』

創作の手法に近い書き方をしているのであるが、それが却って裏目に出てしまった感がある。怪異の肝となる内容を時系列の流れの中に組み込まず、敢えて体験者の記憶のフラッシュバックとして話の末尾に置くという手法であるが、巧くはまってしまうと相当な余韻を得ることが出来るだろう。しかしその効果を得るには、実話というハードルの高さ、そしてストーリーの展開に問題があったという印象である。
一番問題と思うのは、時系列の流れにおいて怪異を体験した部分の描写の拙さである。具体的に言えば、体験者があやかしの両足を引っ張ったところからの描写に曖昧な点があるために、その状況を把握することが非常に厳しかった。スカートだけが脱げてしまった状態で木棚に引っ掛かったのか。引っ張った両足のポジションが明確に書かれていないために、身体がバラバラになってしまったようにも見えてしまった。このあたりは“あったること”としての怪異の記録が整理されていないと指弾されてもやむを得ないレベルであるだろう。そしてこの曖昧な状況提示のまま最後の肝の部分を後から書き足してしまっているので、さらに把握が難しいことになってしまっている。一般的な常識が通じない超常現象を描写するのは、ある一定レベル以上の筆力が必要となる。特に実話怪談の場合は、この超常現象をいかにリアルなものとして読み手に提示出来るかが生命線であると言っていいだろう。この作品では、結局のところ、創作の手法を用いて恐怖感を煽ろうと意図したところまでは良かったが、その代償として“あったること”としての怪異そのものを判然としないものにしてしまった。要するに、実話怪談の暗黙の条件であるリアル感の創出を殺してしまったために、何かしら信憑性に疑問符が付いてしまったと言えるだろう。
またこの印象を助長させるのが「カカカカカ」という擬音である。これが恐怖のために歯をかち合わせる音であることが最後に分かる仕掛けになっているのであるが、やはりこの擬音を最終行に持っていく手法は創作的であると言える。そして残念ながら、このやり方も実話としてのリアル感を失わせている。
さらに言えば、体験者の恐怖の記憶を引きずり出してくるガジェットとして登場する、鉛筆のキャップもあざとい演出であると言える。姉がもらったキャップが、ランドセルの中にあったのと全く同じもの、あるいは同種であると認識出来るものであればいざ知らず、単純にキャップの存在だけで体験者が恐怖の体験を思い出すというのは、かなり不自然な流れてある。意地の悪い見方をすれば、意図的に話を組み立ててこじつけているのではないかと思われてもやむを得ないだろう。
実話怪談だから時系列的な構成でなければならないというルールはないと思う。むしろ創作的手法を導入して新たな境地を拡げる試みには肯定的である。ただしその前提には、実話独自の良さが活かされてこそという思いがある。この作品の場合、あまりにも創作的手法を全面に出し過ぎたために、怪異の持つリアルさを殺してしまった感があまりにも強い。特にこの作品に登場する怪異は荒唐無稽な部類であり、もっと丁寧に“あったること”を描写しなければ、読み手を納得させることが難しいタイプであると言えるだろう。試みは良しとするが、それに適した怪異の内容ではなかった、そしてかなり強引な構成になってしまったという意見である。
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