【0】夢の話

冒頭と末尾の思わせぶりな発言は鼻につくものの、“語りかけ”調の文体に対する好き嫌いはどちらでもないというところであるが、やはり怪異の本質を見極めた上で作者が採用する必要性はあると思う。
“語りかけ”調スタイルの特質は、読者に対して同意を求めること、つまり語り手(作者)主導で饒舌にストーリーを進めていく印象が鮮明に出てくると考えている。
それ故に“語り手(作者)の顔が見える”状態であれば良いのであるが、顔が見えない状況でやってしまうと“お仕着せがましい”強引さだけが目立ってくる(【稲川怪談】の文体はまさにこの“語りかけ”なのであるが、活字の前に氏のソフトなキャラが立っているから、あの口調が活きてくるのである)。
結論から言うと、この作品の場合、語りかけが却って作者の恣意的な展開と受け取られかねない危険性があり、良い効果を上げることに失敗しているという意見である。
特にこの作品の肝が“夢”という主観性のかたまりのようなものであることが災いしている。
体験者自身の夢は当然再現不可能な主観の世界であり、父親の子供時代の事故も本人の告白だけで、作品内で客観的物証が提示されることはなかった。
誰が見ても明らかな物的証拠が厳然と存在していれば、語り手(作者)がいくら恣意的な言葉で語ろうとも、決して読者はその語りの文に対して偏見の目を持つことはない。
だが、主観的証拠しかない事柄に対して語り手(作者)が「そうですよね」と同意を求めるような書き方をすれば、読者は間違いなく身構えて読むはずである。
この微妙な心理的駆け引きを考慮すると、やはり“語りかけ”のスタイルをこの作品で採用するのは良くなかったと思う。
だが、そのような書き方に関する効果を度外視してこの作品の怪異を見ると、“記憶の遺伝”という心霊研究にとって非常に意義のある、そして驚くべき内容であることは言うまでもない。
息子の夢の内容で父親が記憶を掘り起こしたディテール部分が具体的に並べられていれば、資料的価値も出てきたのではないかと思ったりもする。
色々な意味で大化けする要素を持ったネタなのであるが…