【−3】山姥の夜

“実話怪談”としてのリアリティーを維持するために、果たして“民話調”の文体を選択する必然性があったかということを考えると、自ずと評価は大きくマイナスとなってしまった。
基本的には“あったること”を前提にして読むことになるのだが、作品全体の調子が“作り物”っぽいという印象を持ってしまえば、いくら“本当にあったことだ”と信じながら読んでいても限界がある。
この作品の場合、信念が折れてしまったのは“神の視点”で書かれ、また“予定調和的”な御都合主義がまかり通る民話のスタイルで書かれていたことに尽きる。
小屋に逃げ込んでからの体験者と山姥のやりとりは、まさに『三枚のお札』のパターンを意識的に踏襲したものであり、山姥にまつわる民話の定番中の定番の焼き直しと勘繰られてもおかしくない(というよりもシチュエーションを考えれば考えるほど、この会話はリアリティーに欠ける内容である)。
また体験者と一緒にいた動物が犠牲になるのも、この種の話では定番である。
しかも都合の良いことに、それまで唸り声すら発していないように書かれている子犬が、体験者の手をすり抜けて山姥と対峙した時だけ激しく吠えてしまうのである。
これが全て真実であったとしても、誰もが知っているフィクションの構成に酷似した書き方をすれば、作者自身がわざわざ疑念の目に晒されることを望んでいるとしか思えない。
荒唐無稽な“あったること”を荒唐無稽な次元の内容を許容するスタイルで書いてしまえば、誰もが納得できる作品にすることは困難極まりないと言えるだろう。
後日談も含めて、いわゆる“実録”的な筆致で書いた方が、まだリアルな感覚を維持できたのではないだろうか。
にわかに信じがたい内容であるが故に、それを覆すスタイルを模索すべきだと思うし、その点で民話調の選択は完全な失敗であったと思う次第である。
怪異自体は、霊的なものというよりはむしろサイコパスなどの可能性の方が高いだろう(生身の人間が怪異であっても、これは怪談の基準から外れることはないという意見である)。
出来れば、発見された屋敷の外観なりの記述が欲しかったところである。