【+1】蛇心のルール

いわゆる“因果物”のかなりの大ネタという印象なのであるが、非常に引っ掛かりを覚えた。
内容を精査すると、この因果は父方の姓にまつわるものであって、決して血統ではないということが判る。
具体的に言うと“祖母”が因果に巻き込まれている。
祖母が養子を取った可能性は否定できないが、普通に考えれば、父方の先祖の血を引いた者ではないはずである。
また複数の“おば”がいるが、これも結婚して父方の家系に入った人が含まれるから、これだけの人数になると推測した方が妥当であるだろう。
そして話者が心配している“母”の存在も、まさに血族の因果ではなく姻族の因果であることを明確に示していると言えるだろう。
つまり、話者は既に他家に嫁いで“姓が変わっている”わけで、この因果の連鎖の部外者、関係者でありながら絶対安全な場所から怪異を傍観できる立場にいるのである。
近親者が死ぬことは辛いのは当然であるが、自らが連鎖の輪に入っていない以上、死への不安や恐怖からは解放されている。
この事実が、作品全体における話者(体験者)の立ち位置を微妙なものにしていると言える。
因果を受けている家の一員であるから、話者は読者にとっては当事者の一人とみなされるが、しかし因果そのものについては完全な第三者に過ぎない。
この意識のギャップが、この作品全体を覆う“ゆるさ”の元凶なのである。
つまり、因果による死の恐怖から解き放たれている人間(間違いなく話者は自分の立場を理解しているはずである)の目を通して怪異の全容が語られている状態に等しい、それ故に当事者でなければ語れない切迫感が薄いと読者は思うわけである。
この作品にあるようなケースでは、敢えて“あったること”だけを書き綴るというやり方で、話者の感情を極力表に出さない方が強烈なインパクトを出すことが出来たように思う。
話者が不謹慎な興味本位で怪異を語っているはずがないのは当然なのであるが、“死と紙一重”の恐怖だけは当事者でないと伝えきることは難しいと思う(文章化のプロセスで“書き手”というフィルターが確実にあるのだから、これ以上の間接的な感想・意見の披露は話のインパクトとしては弱すぎるだろう)。
ネタそのものも、取材をもっとすればまだ何かが出てくるという印象の方が強く、こちらももう一つ突き抜けた感がないというのが正直な感想である。
ある意味、まだ醸成させた方がよい怪談なのかもしれない。