【+2】覗く

連続的に起こる怪異としてはなかなか気味悪い内容のものであると思うし、書き手もその薄気味悪さと禍々しさを提示することを目的としてストーリーを展開しているのがよく解る。
あやかしそのものが、赤い振袖に“市松人形がゲラゲラと笑った”ような直球ど真ん中の容姿であるから、インパクトを与えるのはそう難しいことではない(しかし、この市松人形の比喩は秀逸。これだけで女の禍々しさが増幅したと言えるだろう)。
“あったること”だけをしっかりとなぞったら、それだけで十分高評価を得るだけの内容になるはずである。
しかしながら、最後の怪異体験である、カメラのファインダーを覗いてあやかしを目撃する場面の扱いにおいて、詰めが甘いのではないかという引っ掛かりが生じた。
こういう連続的な怪異の場合、最後の怪異にカタストロフィーと言っていいほどの強烈な内容を置くか、あるいは後味の悪い予兆を思い切り感じさせるかしないと、奇麗に終わることが出来ない。
この作品の場合、全体の構成として目撃談の書かれ方が回数を重ねるごとにどんどん短くシンプルになってしまっており、ある意味竜頭蛇尾の印象がある。
そのためにカタストロフィーは不発ということになる。
そして予兆については、“殺す”という言葉を提示したところまでは良いのだが、それが“かもしれない”で締められてしまっており、何とも腰砕けなのである。
また体験者とあやかしの距離という観点からすると、最初はかなり離れたビル、舞台の上、そしてドア越しとどんどん間合いを詰められてきて、最後にカメラ越しと来ると、結局距離的に何となく“離れた”という印象を持ってしまった。
詰まるところ、最後の怪異によって読み手の緊迫感は却って薄れてしまったのではないだろうか。
後日談の万華鏡の話はそれなりの趣向であるとは思うが、それよりも怪異の部分で一気にカタを付けないといけなかったのではないかという印象である。
カメラの怪異を切り捨てる、あるいは“殺す”という言葉が明確に発せられたという書き方にするようにしないと、禍々しさの極点には達し得ないまま終わってしまったと言わざるを得ないだろう。
プラス評価ではあるが、完全に怪異を活かしきれなかったという判断なので、高得点にまでは至らず。