【−2】手摺りの上に

体験者は生首が落ちたという解釈の上で語っているのだと推測するのだが、結局書き手がそれを追認する形で書いてしまっていて、それを決定付けるための確証を出すことを怠ってしまっているという判断である。
まずこのあやかしが“生首”であるかというところから疑問が出てくる。
体験者は視線を感じたためにベランダにあるものを“誰かの頭”と思っただけであり、はっきりと頭であると確認していないのである。
つまり体験者が頭であると確信した根拠がどこにも書かれていないので、その根本的な部分から疑念が生じてしまうのである。
暗がりであるために、顔であると認識しながら、誰なのかも表情も分からないし、記述内容からは髪型すらも明確ではない。
読み手からすれば、本当に体験者が見たものが人の頭だったのかを確かめる術がないのが実状なのである。
もしそれが“人間の頭”でないとすると、この怪異に対する印象は大きく変わってしまう。
横滑りする場面でも、どのぐらいのスピードで移動したのかが書かれておらず、非常に曖昧な表記になっているために、極端に穿った見方をすれば“小動物”が手摺りの上に佇みさらに移動した連続行動を誤認したのではないかとさえ勘繰ってしまうのである。
結局のところ、体験者が見たものが“人の頭”以外である可能性を否定し切れていない、あるいは“人の頭”であるという確証を明示出来ていないために、どうしても事実誤認ではないかという疑念がつきまとうことになってしまったと言えるだろう。
このような不特定多数の人間の目に晒される作品に仕上げる場合、合理的説明が付けられる可能性の芽を摘んでおくことは、書き手として必要不可欠な確認作業になると思う。