【−1】五百円玉

もしこれが創作もOKの怪談の大会に出された作品であるならば、おそらく高く評価していたと思う。
過去に犯した自らの罪に対する良心の呵責とも言える、先輩の腕のあやかしを目撃して恐れおののく体験者の心理が嫌が上でも理解できるからである。
体験者が目撃したあやかしの正体が“先輩”の腕であるかどうかは、この怪談にとって重要なキーになることは明白であるのだが、ところが“実話怪談”として読み解く場合、このあやかしの正体が先輩であることがなぜ分かったのかという部分において、この作品は何らかの答えを用意していない。
というよりも明らかに唐突であり、その根拠を一つも提示していない状態なのである。
この作品では、このあやかしである腕が先輩であるかどうかは、全ての印象を左右しかねない重要なファクターである。
もしこれが先輩の腕でなければ、体験者の恐怖感はただの妄想の産物にほかならず、誤った認識によって発生した恐怖感の創出ということで、あやかしの登場する怪談としての価値は大きく損なわれることになる。
先輩の腕であるという前提で怪異の結末が用意されている以上、この部分の確証の明示こそが実話怪談として成立させるための担保と言ってもおかしくないはずである。
だがこの作品ではその部分での言及はなく、結局体験者の思い込みに近いニュアンスさえ漂わせている。
事実であるという確証が得られない状態では、実話としてある意味破綻していると指弾されてもおかしくないと言えるだろう。
体験者の内面が非常に細やかに書かれており、そこから醸し出される恐怖感はなかなか興味深いものがあるが、その恐怖感の源泉が事実でないかも知れないというところで、大きく引っ掛かってしまった。
“実話”である以上、そこに記録されたものが客観的に“事実”であることの根拠が示される必要性、特に怪異そのものに直結する部分であればあるほど絶対的に不可欠な要素として提示されなければならないのである。
その点で重大な問題が生じていると判断するために、どうしてもマイナス評価を付けざるを得なかったということである。
怪異譚としてよくまとまった話であっただけに非常に残念であるが、あくまで“実話怪談”の規矩で突っ込ませていただいた。