【−3】家鳴り

最後に提示された“阪神大震災”の一言で全てがぶち壊しとなってしまった。
家鳴りが超常現象によるものであると想定しても、なぜ1ヶ月以上もタイムラグのある大震災と関連付けようとしたのか、全く理解に苦しむところである。
しかも家鳴りの起こった時間帯と阪神大震災の起こった時刻とは5時間もずれているし、そもそも家鳴りと地震とを結びつける根拠が皆無である。
これではこじつけというよりも、完全な思い込みの産物でしかない。
それを最後に堂々とこの家鳴りの原因であるかのように持ち出されては、これでは妄言の類に等しいと判断せざるを得ないわけである。
ただ家鳴りについては、テレビ台が割れるような事態にまで至っていること、また家鳴りに対して明確なリアクションを取ったことで止んでしまったことなどを考え合わせると、単なる自然現象であると言いきることは難しいと言える。
それ故に、このテレビ台が壊れた事象でとどめておけば、それなりに不思議な事柄として読めたと思う。
やはり“あったること”だけで体験をまとめた方が無難であったという見解である。
そしてもう一点指摘するならば、文調が一昔前の某オカルト雑誌の“読者投稿”のスタイルそっくりであり、どうしても何となく胡散臭いというか、少々眉唾物という印象で読んでしまった。
最後の地震との関連付けや、最後の一行にある“あの家鳴りは地震を知らせるためのものだったのでしょうか?”という無意味な問いかけなどは、まさにその時代の象徴的なスタイルであり、この作品の評価を損なう部分と一致しているわけである(“ですます調”もその延長線上にあると思うが、今回は不問で)。
本物の怪異であるならば、書き手自身が意図的に盛り上げなくとも必ず読み手にその不思議さは伝わるものであり、却ってそのような装飾が付くほど怪異の信憑性に傷が付き、読み手は引いてしまうということである。