【−5】夢、あるいは……

体験者が、果たして本当にこのような体験をしたのかという、非常に根本的な部分から疑問を感じてしまった。
体験者自身が駅で遭遇した女に関するコメント自体が、非常に曖昧で要領を得ないものであるという印象が強いのである。
遭遇した女の話している内容は完全に常軌を逸したものであるから、その信憑性について云々しなくてもよいと思うが、だが体験者が遭遇した相手が生身の人間なのか、それとも“見えざる存在”なのかを判定する決め手が頼りないのである。
少なからず人通りのある場所での事件性のある出来事であり、見て見ぬふりをする人ばかりであるとしてもやむを得ないかもしれないが、少なくともその光景が繰り広げられているところへ敢えて知らぬふりで近づくことが絶対にないだろう。
周囲の人間が、全くその光景に気付かずに通り過ぎているのか、あるいは気付きながら“なかったこと”にして避けているのか、それぐらいの状況判断は出来るはずである。
おそらく、血が飛び散っているのに気付かずに通り過ぎるということだから、体験者以外には見えていないことになるかもしれない。
ところが、相手が“見えざる存在”であると認識しているのであれば、なぜ“見張られている”ことに怯えるのか、どうも怯えの対象が違うのではないかという気になるのである。
言うならば、そのあたりの体験者の恐怖感がチグハグという印象が否めず、結局のところ“もしかすると最初から彼女は精神的に病んで、幻覚に怯えているのではないか”という推論が導き出されてくるのである。
またこの疑念が生じてくる余地が随所に見られ、例えば、掴まれたとされる手首の火傷跡が本当にその怪異に襲われた時に付けられたものかの説明が一切ない、体験者の最後のメールの内容が怪異に登場した女性と同じであることなどが、余計に疑いの念を強くさせてしまうのである。
書き方や構成によってもっと整合性を持たせて、しっかりと怪異であることの印象付けが出来たはずである。
書き手としては“伝播怪談”の方向へ持っていきたかったようにも見受けるが、ただそれが怪異そのものの印象があやふやであったために、体験者の脳内で構築されたように見える展開になってしまったという感が強い。
“怪談”や“都市伝説”であればこれでも大いに通用するかもしれないが、“実話怪談”としては個人の幻覚は絶対的に御法度の存在であるが故に、大きく減点とさせていただいた(最低評価としなかったのは、本当の怪異であった可能性が捨てきれないためである)。
どうしても客観的な根拠に欠ける場合、厳しくなるのが“実話怪談”の評価の掟であるということである。