『腕立てふせ』

体験者が怪異に気付く瞬間というのは、怪談を書く上での最大の見せ場であると言っても過言ではないと思う。これの出来次第で、軽微な怪異でも驚くほどの恐怖感を得ることが出来るし、逆に一気に読み手を白けさせてしまう破壊力も有している。とにかく“気付き”の場面は、書き手にとって腕の見せ所のひとつである。
この作品では、この“気付き”の場面でとんでもないぐらいのもたつきを見せてしまっている。鏡に映っている自分の姿が変であるという、書きようによっては非常に劇的な効果を生み出せるような場面なのだが、ところがその鏡に映っている自分の姿に関する説明描写があまりにもくどすぎて、却って状況を理解する妨げになってしまっているのである。おそらく鏡を見たことのある人間であれば、もっと簡単な説明で十分位置関係が判るはずである。それを勿体ぶるように説明しすぎて、ある程度状況が理解出来た読み手すら混乱させるような結果となっている。これではせっかくの“気付き”の重大場面が、逆に足を引っ張ってしまっていると言えるだろう。
また最後の部分の「腕立て伏せなんか絶対しない」と憤慨しているセリフであるが、これも果たしてそれまでの展開にとって必要であったか甚だ疑問である。怪異体験に対する怒りの表現は、おおよそ苦笑混じりの印象をもたらす。つまり恐怖の余韻を殺して、若干の安堵を含む穏やかな結論を生み出す。この作品の場合、体験者が“トラウマ”とまで言いきるほどの強烈な怪異を体験しているわけである。その結論が“二度とやらない”という不満をぶちまける形で終わっており、やはり恐怖感とは違う方向で締め括られている印象が強い。敢えて恐怖感を煽る締め方をする必要もないが、もう少し余韻を残すような書き方はあったはずである。
怪異そのものについては、恐怖感もそれなりにあるし、希少性もある。しかし怪異譚として重要な部分で余計な手が加えられ、それによって違和感を覚えるところが強いため、どうしても作品としての評価は低くならざるを得なかった。
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