『黒い男』

気を緩めると自分の左側に現れる“黒い男”の存在も怪異であるが、やはりクライマックスと言えるのは、天井にまで飛沫が飛んでいったという最後の場面である。2階の吹き抜け天井にまで“しずくがポタポタと落ちる”ほどの大量の紅茶が飛んでいったという現象は、どのように考えても、よほどの勢いで天井めがけて紅茶を投げつけるようにしないと物理的には不可能であるだろう。当然体験者自身はマグカップを手から取り落としただけなのだからあり得ない現象であると感じたのであるが、それを後から目撃した家族の言葉が一気に興醒めさせてしまっている。いかにも他愛のない粗相という感じで受け止めてしまっているとしか思えない言葉は、怪異の持っている不思議感を削ぐような印象を与えてしまっている。少なくとも「なぜ?」という感覚でいてもらわないと、このストーリーに加わってくる意味がないだろう。
さらに最後の1行で体験者の“黒い男”に対する解釈が施されているが、これが今までの遭遇パターンから導き出されとは思えないような杜撰なもの。“水を求めている”という解釈であるが、最初に書かれた遭遇場所には“更衣室”があり、どう考えても水を求めて現れる場所ではないように感じる。しかも“水を求める”霊体は、死の間際に劣悪な条件で水すら飲めなかった故に現れるのであり、水に対する執着は想像以上に激しい。そのような霊体が、体験者が気がゆるんだ時に一瞬だけ姿を見せるような悠長なことをするとは考えにくい。おそらく何らかのきっかけで一定期間だけ取り憑いていた霊体であると考えた方が良いだろう。体験者の解釈だからといって鵜呑みにして書いてしまうのは、いかがなものかと思うところである。
怪異のクライマックスを軽いものに変えてしまったセリフの採用、そして体験者の適当な解釈の記載の2点を以てして、せっかくの怪異への興を削いでしまったのはかなり手痛いミスであると思う。書き手の怪談へのセンスを疑わせるようなレベルと判断するため、マイナス評価ということで。
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