『まめ』

怪異譚としてはよくある部類の話だと言える。葬儀の時に故人の思い出話をしているさなかに起こる怪異としては定番中の定番だと言ってもおかしくない話であり、それ故に信憑性という点ではそれなりに納得出来るものとなっている。しかしながら、この作品の場合、悪い意味で体験者の感情移入がなされており、それがネックとなって却って信憑性に揺らぎが出てしまっているとも言える。
作品の前半部分で先輩が亡くなった事故について詳細が書かれているが、ここからして体験者の感傷的である様子が受け取れる。そしてそこから怪異の場へ移るまでは、まさに先輩を思う気持ちが全面に溢れている内容になっている。先輩を偲ぶという目的であれば、このような書かれ方は当然あってもおかしくないところである。
しかし、いざ怪異となれば、このような感傷は抜きにならなければならない。特にこの作品にあるような、現象そのものは超常的とは言えない(誰かがビールを飲み干す、誰かが同じ銘柄のタバコを用意するだけで現象自体は成立する)場合はとりわけ、冷静な観察眼がなければ怪異として認めることは出来ないのである。例えば、ビールを注いだのがグラスであれば、少なくともグラスのふちを見れば、人が飲んだのかどうかは分かるはずだろう。あるいはタバコにしても前夜から居合わせた者に確認することは可能なはずである。ところが、体験者達は先輩の死という感傷の名目で、その検証を怠っているのである。
体験者の先輩を思う気持ちは理解出来るが、そこで起こった怪現象の全てを先輩の引き起こした怪異であると思い込むことは、特に赤の他人である読み手には無理な相談である。あくまでも客観的な証拠がなければ、胡散臭さが残る。この部分でお茶を濁されてしまっては、実話怪談とは言えないと思う(創作も含めた広義の“怪談話”であれば、この内容でも十分であるということだけは付け加えておきたい)。結局のところ、当事者が怪異であると思いたい気持ちだけでは、実話怪談の客観性の壁は乗り越えられないのである。もし物理的に不可能であることが一目瞭然という現象であればおそらく良い怪談話となっていたと思うが、残念ながら、このレベルの説明では「怪異である」と主張するには厳しいと言えるだろう。
【−4】