『花は置けない』

この作品は怪異を明らかにするのではなく、いわゆる「怪異を通して人を書く」典型的なパターンであるだろう。現れた霊体の出自も明らかとなり、なぜその場所に出現するのかも明瞭であり、その点でもそれなりに希少性のある話である。しかし、その哀れな霊を、読み手は体験者の視線を通して追体験することになる。その部分にこそウエットな怪談話が成立すると思うわけである。
体験者がこの霊体を“生身の人間”として気にし出すところから、この話は展開する。そしてある出来事がきっかけになって、彼は彼女が霊であることに気付く。その後も彼は霊を見続けるのであるが、その視線には変容が見られない。死者であるという認識を突きつけられても、彼の彼女に対する思いに変わりがないが故に、余計にせつなさを感じるのである。むしろ知ってしまったがために、自分には彼女をどうすることもできないという無力感に苛まれることが、しっかりと描写されていて、さらに悲しみを募らせることになる。はっきり言えば、あざといぐらいに体験者の哀しみを客観的に綴っているのである。特に就職後のエピソードを最後に持ってくるところは、まさに映画の幕切れにも似た演出であり、完全に狙ってきていると思う。
体験者が彼女が霊であると気付いてからの流れや文体は非常に際立っているのであるが、その前日の中華料理店での仲間とのやりとりの部分だけは非常にまどろっこしい限りである(この部分は、体験者の彼女に対する想いを表出させるエピソードにもなっているのだが、それでも少々くどいと思う)。書き手としては、体験者と仲間との話の食い違いから徐々に霊体の正体を明らかにしていこうという意図があったものと推測する。しかし大抵の読み手は、既に体験者が気にしている彼女が霊である(あるいはそれに準ずる存在)という意識を持ち始めている。それ故にこの展開があざといと感じるのである。この“気付き”の発端であるだろう会話については、ここまでの臨場感ある展開は必要ないと思う。次の体験者の“気付き”で十分な表現が施されているから、さらにくどさを感じるのである。
全体としては、書き手の意図がしっかりと反映された作品であると思うし、それが読み手にまで伝わっていると言える。十分な佳作である。
【+4】