『スマイル』

怪異と確定出来るものは、最後に登場する“スマイルマーク”が描かれたことだけ。曇ってはいるものの、ガラス越しに人影が全く映らないということはあり得ないと判断出来るだろう。しかし体験者がしばらく会話していた老婆の存在は、非常に微妙なところである。脱衣所に衣服がないのが事実であったとしても、やはり事故や事件の可能性は捨てきれないわけであり、これだけの理由で老婆をあやかしと認定するのはやや強引であるだろう。またスマイルマークと老婆を結びつけようとする体験者の発想も否定は出来ないが、逆に絶対そうであるとも言うことも出来ない。霊であると確かめられなかった以上は、それを取り上げて“実話怪談”として公開するのは無理があるという意見である。老婆が霊ではない可能性がかなりある限り、それを客観的に打ち消す物証を提示しなくては、間違いなく読み手から批判を浴びることになるのである。
さらにこの作品で違和感を覚えるのは、体験者の異常な恐がり方である。夜中の大浴場で一人無防備な状態でいることは、不安感を募らせてもやむを得ないシチュエーションである。そこで老婆と出会い、他愛のない話をしてほっこりとした気分になっていたにもかかわらず、脱衣所に自分の衣服しかないという事実だけで、先ほどまで会話していた老婆を真っ先にあやかしではないかと疑って恐怖する感覚が、非常に唐突なのである。会話の内容からかなり気を許していると見て取れるので、衣服がなければやはり本人に伝えようと思うのが自然であるだろう。体験者の怪異への“気付き”の部分が雑であると、読み手の側からすると、どうしても不自然で胡散臭さに直結してしまうのである。大浴場に一人でいた時からの不安が一気に爆発したというのが真相であるならば、老婆との会話の部分でも何かしらの疑念や違和感を訴えるような文言を書かないといけないだろう。老婆との会話で不安感が完全に一掃されているように書いてしまったことで、体験者の心情の変化が寸断されてしまい、不審を招いたのではないかと推測する。ただ、この違和感は怪談話にとっては非常に致命的である。
老婆の存在をあやかしであるとみなすのであれば、それなりの書き方がなければならない。この作品のような扱いをすれば、大半の読み手は老婆を生身の人間であると判断し、怪異とは無関係であると意識するすることになってしまう。その部分さえクリアすれば、ちょっとした作品になっていたかもしれないが、現状では老婆は怪異ではないとみなして、マイナス評価とせざるを得ないところである。
【−3】