『ラッシュアワー』

冒頭から男のいけ好かない様子をこれでもかと書くことによって、赤ん坊の霊体と男との接点を誘導させようという意識が働いている。つまり、赤ん坊の霊体が“水子”であり、この不躾な男が父親であるかのような展開を、読み手に想起させる書きぶりである。赤ん坊の霊体がまとわりついてくる状況を見れば、体験者でなくともそのように考えるのが妥当であると言えよう。
しかし霊体についての描写で気になるところもある。“顔に知性がある”とか“体験者と目が合って「しまった!」という表情をする”という表記から、単純に“水子”の霊とみなすのは早計かと思うのである。“水子”はこの世に生を受けることなく死んでしまった胎児の霊を一般に指す(死産した乳児も含むことが多い)。彼らはこの世に生まれ出なかったために、盲目的に愛情に飢えてすがりつこうとしたり、生まれ出たきょうだいに対して嫉妬したり、とにかく感情の赴くまま欲望に忠実に行動することが圧倒的に多い。それ故に、理性的で周囲に気を遣うような行動を取ることは、まずないと言えるのである。つまりこの作品にあるような、しっかりとした意志を持っていることは間違いないが、体験者と目が合っただけで、自分の行動を翻して消えるような存在ではないと感じるところが大きいのである。しかも“水子”が男性に取り憑くケースは圧倒的に少なく、小さな兄弟に憑くか、あるいは相当恨みを買うような真似をした男に憑くかぐらいである。後者の場合であれば、おそらく“水子”はこういう暢気なやり方はしないだろうと推測するし、もっと強烈な祟り方をするものと考えた方がいいだろう。結論としては、この赤ん坊の霊体の一連の行動を精査すると、あまり“水子”らしくないという意見に傾くわけである。個人的には、この赤ん坊の霊体は“隙あらば取り憑く”タイプの悪霊に近いものではないかと思うところが大きい。
作品そのものについては、怪異を丁寧に書いており、単なる錯覚ではないと思わせるだけの内容である。霊に対する解釈は異なるが、それなりに評価できるものと言えるだろう。
【+1】