『訪問者』

とにかく全ての内容が良い意味で要領を得ない話であり、実際にどこからどこまでが怪異であるのかすらもうひとつ分からないと思ってしまうような作品である。特に秀逸なのは、体験者自身が自分の今体験している内容がどんどん理解不能になっていくのを自覚しながら、それを明瞭に書き記しているところである。実際に目の前で起こっていることの意味が崩壊する状況を的確に示すことで、読み手にまで強烈な不条理さを訴えるのに成功していると言えるだろう。怪異の再構築という観点から立てば、このあたりの記述の存在は、この怪異の本質を見事に射抜いている感が強い。
だが、この自分自身の判断すら疑うような怪現象であるために、この不安定感は作品そのものの根幹を揺るがす内容でもあると言える。つまり、怪異の本質でもありながら、その怪異の信憑性を覆すことにも繋がる諸刃の剣のような存在であるとも言えるのである。この体験者の証言が実際に“あったること”とするための防御を徹底して敷く必要性が出てくるのである。その意味でも、体験者以外の人物の証言、特に夫の証言はもっと掘り下げなくてはならなかったと思う。具体的に言えば、妻の視点から書かれた怪異の後に、それをなぞるように夫の体験した内容をそのまま時系列的に並べても良かったぐらいである。この二人の証言の食い違いこそがこの怪異の本質であり、最も恐怖を覚えるところなのである。そこに当事者ではなかった息子が発見した茶碗の数の異常さが加えられることで、一気に錯覚や思い込み、果ては精神状態の問題といった疑念を解消できたのではないだろうか。要領を得ない怪異であるからこそ、複数の証言者を掻き集めて“あったること”を補強することが必要だったと思うわけである。
そして最後に、怪異の発端となった姑についても言及すべきだっただろう。認知症と疑われたのであるが、実際のところどうだったのか。もし認知症でなければ絶対に書かねばならなかっただろうし、姑自身の体験もサラリと触れておく必要があったと思う。やはり取材不足の感は否めないところである。
非常に不可解な怪異であるが、それを一つの視点からしか捉えなかったために、せっかくの強力な裏付け証言を逃してしまったように思う。一応プラス評価ではあるが、取材次第ではもっと鮮明な不条理怪談となれた要素が大きいと判断し、高評価までは至らずということである。
【+2】