『八割(はちわり)』

オチの“残念”ぶりがなかなかいい感じの怪異譚である。最初の母親の心配で不安げな雰囲気から徐々に状況が判明して、最終的に何ら危機がないと分かった直後に思い出したように明かされる“涎掛け”のインパクトは、当の本人でなくとも苦笑せざるを得ないところであるだろう。怪異がどのように展開されていくのか分からない緊迫感から解放された途端に飛び込んでくる情報のイメージの落差に、私自身も思わず表情を緩めてしまった。この緩急の使い分けは、笑いを取るタイプの怪談としては常套手段であるが、巧くツボに入っていると言える。
ただ書き方で気になる部分が2つ。
まず、登場人物の名前である。さすがに“大沢君の兄の名前”という注記は興を削ぐと言わざるを得ない。別に彼の名前が怪異に重要な役割を果たしているということでもないので、軽く“兄ちゃんの部屋”という感じで適当に表記しておいた方が良かっただろう。何ごとにつけ“あったること”を完全に再現表記する必要はないと思うし、却ってそれによって読みにくさが生じるのであれば、このような些末な部分は理解可能な範囲で修正処理すれば良いと思う。怪異として“あったること”が忠実に再現出来ている、あるいは重要な関連事項がしっかりとフォローされているのであれば、“実話”としての怪談は十分成立していると考えるのが良識という意見である。
そしてもう一点は、冒頭の“生霊・分身”という言葉である。怪異の解釈とすればある程度妥当なレベルなのであるが、これを最初に語ってしまうのは果たして有効なのであるかは甚だ疑問である。“あったること”としての怪異に関して、「怪談」の場において何らかの解釈めいたことを書き添えるのは必然性もないし、むしろ読み手の自由な想像を妨げるだけの厄介な説明に堕する危険性もある。この作品の場合、最もインパクトがある部分が、小型サイズの大沢くんの出現ではなく、そのあやかしが着けていた“涎掛け”になっているために、大きなネタバレにはなっていないと思う。しかしそれでもあらかじめ読者にどのような怪異が登場するかを予告するのは、怪異表現の上で相当不利な状況に書き手自身を追い込むことになるだろう。敢えてそのような危険を冒すのはいかがなものかと思う次第である。(さらに心霊学的見地から言うと、生霊と分身は似たような現象ではあるが、全く異なる原理による現象とみなすものである。ざっくりと書いてしまっているが、本来はかなり判断の難しい現象であるという意見である。個人的には、生霊でも分身でもなく「母親の視覚認識では大沢くんに見えてしまった、大沢くんとは全く関係のない何かあるあやかし」という解釈である。特に作品の評価には影響はないが)
まずまずのまとめ方であるし、怪異を笑いの方向に持っていくことにも成功している(危険性のない怪異なので、この展開は十分あり)と思うので、若干プラスの評価で。ただ全体としては、可もなく不可もなくというところで落ち着く。
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