『特化型賃貸物件』

文章そのものは、それなりに書き慣れているというか、生真面目にきちんと書くことが出来るという印象である。しかしその全体の構成を見ると、2つの意味であまりにも冗長すぎる。この冗長さのために、完全に怪異がくたびれてしまっていると言えるだろう。
最初の冗長さは、怪異と全く関係のない事象まで延々と書き綴ってしまったために、メインの怪異に辿り着くまでに読み疲れてしまった点である。まずタイトルにもなった“特化型賃貸物件”の説明から始まるのであるが、怪異の内容どころか、ストーリーそのものにも全く絡まない説明なのである。特殊な形態の賃貸物件が何か怪異と絡むのかと言えば、何もない。「男子ばかりが賃貸する4階建ての学生アパート」で全てが事足りるのである。実話怪談の殆どは、小説で言えば掌編クラスの分量(この冗長な作品でもその部類に近い)であり、その短さの中でこの無駄な記述が最初に置かれたことで、退屈な印象が一気に出来てしまった。さらに思わせぶりな“部屋の欠番”も、結局怪異そのものに全く絡むことなく適当に受け流されてしまっている。とにかく怪異と直結しない内容を延々と書くことは、特に実話怪談の場合、よほどの効果を生み出さない限り、やってはいけない行為なのである。あくまで合理的で効率的な書き方が、実話怪談では基本的に要求されるといっても過言ではない。
もう一つの冗長さは、怪異そのものの時系列的な列挙の多さにある。実際に起こった怪異である以上は全てを記録して書き綴ることも手法であると思うが、とにかく小粒な怪異が多岐に渡り展開するだけで、それぞれの怪異が恐怖なり不気味さなりを引き立てているかと言えば、そのような印象はあまり感じられない。小粒な怪異を箇条書きのように簡潔に列挙しているだけで、だんだんと怪異が迫ってくるという印象もなければ、エスカレートしているようにも思えない。怪異の数が多ければ、それだけ恐怖が増すのではない。読み手に対するアプローチの部分で真に迫った恐怖の感情が出てこなければ、数が多くても結局羅列の域を出ないのである。この作品の場合、一つ一つの怪異が単なる紹介で終わってしまって、最後の金縛りの怪異に辿り着くまでに飽きてしまうのである。書き手としては、女性の霊体が建物内にいることをこれでもかという怪異事例を挙げて客観化させようとしたのかもしれないが、もう少し特徴的な事例に留めて、怪異が身近に迫っているといった心理的なプレッシャーを展開の中で作り出す必要があったように感じる。要するに、記録ばかりを追い求めて、読み物としての怪談の旨味を引き出せなかったと言える。
メインとなる金縛りの怪異については、そこに至るまでの女性の霊の出現と上手く組み合わせることで、地味ながらそれなりのインパクトを生み出すことが出来た可能性がある。ただここまで冗長な流れでは、このレベルの怪異で読み手の緊張感を維持するのは至難の業ということである。記録と読み物との微妙な関連を按配するのも怪談作家の腕の見せ所である。決して捏造をすることなく、読み手に最大効果の怪異を味あわせることが出来てこその妙味もあると思うところである。
【−1】

『先住』

厳しい言い方になるが、ネタが小粒で新鮮味に欠けるものであると、いくら新奇な味付けをしたところで怪談話としては全く面白味が出ることはない作品の典型例である。
賃貸物件で異様な気配を感じてそこで霊を目撃するという、いたってシンプルな内容である。というより、賃貸物件で怪異が起こる作品と言えば無数にあるわけで、そういう条件下でこの作品程度の目撃談だけで話を展開させること自体全く気が利かないとしか言いようがない。その霊体がもっと変わったリアクションをするとかすればまだ何とかマニアを刺激するものがあったかもしれないが、パジャマを着たおっさんの霊体をクローゼット内で見ただけでは、子供騙しの怪談話でも通用するかどうか甚だ怪しいだろう。
さらに間の悪いのは、最後の3行に渡って展開する体験者のコメントである。「女性に人気の」という不動産屋の言葉を思いつきで引っ掛けたような憶測であり、実際にこの霊体と女性に人気の物件であるという事実とが結びつけられる証拠は全くないに等しいわけである(実際、体験者の男性はこの霊に何らかの敵対行為を受けたわけではないし、この部屋の利用状況を噂にでも聞いたわけでもない)。こういう類の主観的で根拠のない憶測を怪談の解釈としておくことは、怪異そのものを矮小化させる悪しきものであり、昨今の実話怪談の作品内でおこなうことはタブー視されるものである。そして最後の行のコメントも、結局は上に挙げた憶測をさらに拡大解釈させただけの内容であり、むしろ怪異そのものを歪曲させるだけの効果しか得られないという意見である。
実話とは“あったること”を綴ることが主眼であって、決して書き手の心霊に関する解釈であるとか思想を主張するために書かれるものではない。この作品の場合、おそらく怪異の小粒さをカバーするために体験者のコメントを利用して目新しさを出そうとしたのだと推察するが、最終的には、実話としての客観性を曇らせる結果にしかならなかったと言える。本当にこの霊体が女性が入居することを画策しているのであれば希少性抜群の話であることは間違いないが、どう贔屓目に見ても体験者の思い込みの産物であるとしか言いようがない。そしてこの解釈が事実でなければ、果たして“あったること”を表現する実話怪談として認めることが可能なのかという問題が出てくる。要するに、余計な拡大解釈は実話怪談にとって余剰どころではなく、命取りになりかねない存在なのである。
怪異そのものは間違いないと思うが、結局余計な解釈のために怪異の面白味を殺してしまった感が強い。怪異の小粒さも相まって、やはりマイナス評価とせざるを得ない次第である。
【−3】

『祖母』

いわゆる“怪談フォーマット”を活用してストーリーを展開しているのであるが、非常に違和感を覚える。フォーマットに従っているのだが、怪異に関する記述が全て祖母の独白によって構成されている点が違和感の正体であると思う。地の文で書かれているが、結局、祖母が一人で自分の体験を語っているだけであり、その点で言えば“怪談”という文章が形成されていない、単純に“見える”人による怪異体験が延々と語られているだけの内容なのである。
過去の大会においても、霊を見る力のある人間が滔々と一人語りをして全くトンチンカンな方向へ行ってしまったというケースがあった。要するに、大多数の“見えない”読者に対して、自分の見聞きしたものをそのまま語り尽くすことは、実は客観的な視点を見失ってただひたすら主観の世界を述べるだけ、極論を言えば、幻覚や妄想の類とさほど変わらない内容を悦に入って話し続けているのと変わらないのである。“見える”人独自の認識世界をいかに客体化させるか、それが書き手(本人自身であれ第三者であれ)の重要な使命であり、その部分をクリアしなければ“怪談”としての普遍性を勝ち取ることは出来ないだろう。
この作品は、地の文のみでいかにも客観的な書き方に見えるが、結局のところ、祖母の語っている内容だけが物証であり、それ以外に客観的に怪異が起こったという証拠がない。それ故に、この怪異が実際に“あったること”として認識してよいかの判断が微妙なのである。“見える”本人が年寄りのおばあちゃんであるという刷り込みがあるから何となく生温い感じで読んでいるが、仮にこれが若い女の子で、上から目線での体験談であれば一気に印象が変わるように思うところがある。要するに、キャラクターで隠れている部分が大きいが、全てをほぐしてしまえば、単に“見える”人の独白だけで話が完結しているだけの内容なのである。
さらに言えば、この怪異の内容そのものが“見える”人の体験談としてあまりにも貧弱である点が指摘できる。もっと強烈で希少な怪異であれば、まだ独白的内容であっても見るべきところはある。しかしながら、2人の霊体が家に上がり込んできただけの怪異であれば、“見える”人にとってみればさほど珍しいものではないという印象が出てくる。実際、祖母は霊であると認識していることが推測できるし、冷静に対処していると言うべき展開となっている。これらの一連の言動を考えると、果たしてこの怪異体験を怪談として取り上げるだけの内容であったか甚だ疑問である。むしろ、話を聞けばもっと強烈な怪異譚が聞けたのではないかという印象すらある。
結局のところ、怪異を前面に押し出すことにも、祖母のキャラクターを前面に押し出すことにも、どちらにも成功したとは言えない内容になってしまったと思う。アピールポイントを見失ってしまった印象で終わってしまっていると言えるだろう。
【−3】

『路上教習』

車を運転している最中の怪異は多いが、路上教習となるとあまり類例を思い出さない。そして超常的な存在による悪戯めいた怪異もよく聞くが、古い墓とか錫杖と関係付けられた類例は記憶も定かではない。ある意味、かなり珍しい怪異ではないかと思うところがある。
しかし、起こったシチュエーション、そして現象としての怪異そのものは、さほど珍しいものではなく、むしろ「よくある話」に入ると言える。しかも怪異の内容が、怪談話として小粒の部類であり、あまりパッとしない。特にこのような1作ごとに評価をするコンペティションの場では最も不利な立場に置かれるレベルの作品ということになるだろう。いわゆる「複数の怪談が収められた作品集の中にあって、ちょっとした息抜きのように置かれることで存在感を示す」作品ということになる。
作品自体は完成度が高いと言える。小粒な怪異を軽いタッチで書くことによって、テンポよく読ませるように作られているし、途中に挟まってくる教官のリアクションが全体の構成にリズムを付けていて、気が利いていると言える。強烈な怪異ではない、むしろ不思議な出来事を少しユーモアタッチで軽やかに書くことで雰囲気を出しているのは、怪異の本質をしっかりと捉えている故であるだろう。非常に好感の持てる書きぶりである。
怪異を精査するほど、この作品は面白い怪異であると思うところが大きい。ちょっと車にぶつけられそうになった仕返しに、少々度のきつい悪戯(それも“車がぶつかってきそうになる”という同じ性質の報復内容)を引き起こすような真似をする。錫杖の音をさせていて、しかもちゃんとした墓があるので、狐狸の類ではないと推測できる。いったいこの墓の主は誰なのかを知りたくなるわけである。小粒ではあるが、色々と考えると、なかなかの怪異であるかもしれない。
ただ残念なことに、怪異の希少性と比べると、いかなる工夫をしようとも怪異の小粒感を払拭させることは不可能であるのも事実である。そのような不利な状況の中で、書き手は最上の選択をして作品を編んだとも言えるだろう。どうしても総合的な評価の点数は低めになるが、完成度の点で言えば、おそらく上位に置くべき作品であるという意見である。
【+2】

『風邪』

おそらく「語り」でサラッとやってしまえばそれなりに納得させることができるが、文字として残されて読み返すことが出来る状態では、どうしても弱さを感じてしまう作品である。
「語り」で練られる文章と、「読み物」として練られる文章とでは、やはり質が違うという意見である。一瞬一瞬で言葉を消化してしまわねばならない「語り」の文は、どうしてもくどい説明や精緻な描写をやってしまうと、要領が把握できなくなって理解不能に陥りやすい。だから要点だけをかいつまんでざっくりとした内容で印象付けるような文で語り続けないと、最後まで聞き手を引っ張ることが出来ない。逆に、読み手自身が言葉を目で追って解釈しながら内容を展開させていく「読み物」の場合は、ある程度の説明がしっかり書かれていないと何となく消化不良を起こす。それぞれの長所と短所を理解した上で活用しないと、それぞれの特性を活かすことは難しいと思う。
この作品の場合、怪談として最も重要な部分である怪異そのものの描写が、限りなく贅肉を落としてしまって、殆ど箇条書きに近い説明で終わってしまっている。これがもし「語り」であるならば、この骨になる文章だけがしっかりと聞き手に伝わり、怪異があったことを理解させることができれば、それなりに怪異譚として成立するかもしれない。しかし「読み物」である以上、これだけの簡易な説明だけでは、読み手は怪異を認識する以前に内容を読み終えてしまうだろう。目で文字を認識して読む場合、ある程度の長さの情報量が必要である。耳で聞く場合は直感的な理解が可能であるが、目の場合はそうはいかない故に、ある程度の分量を読ませて内容を認識させるのが常套手段であると思う(一語で決めるインパクト勝負のケースもあるが、その場合、一瞬で読み手が理解できるかの部分に創意工夫が必要であることは言うまでもない)。この作品の場合、怪異の内容についての記述が短文で終わってしまっているために、読んでいて余りにもあっけないのである。その点に、怪談としての弱さが出てしまっていると言える。(「語り」についていえば、さらに聞き手の反応に従って伸縮自在に話を繋げていくことも可能である。完全に固定された形でしか提示できない「読み物」にはできない利点がさらにあるわけである。)
オチの一文に内容を集約させようという意図は見えるのであるが、怪異譚である以上は、その怪異の内容が充実していなければ本質から外れてしまう危険がある。しかもこの作品の場合、怪異も弱ければ、オチも意表を衝くような内容ではなく、予定調和的な範囲でこぢんまりと収まってしまっている。要するに、全体的に中途半端な笑いで終わってしまっているのである。さらに言えば、何となく中途な印象が怪異と風邪との因果関係が、果たして体験者の言っている通りなのかという疑念にも繋がっているだろう。
おそらく酒席などで軽く話したら受けるとは思うのであるが、こうやってしっかりとした文章で構えた状態で読むには、余りにも内容が貧弱であるという意見である。怪異の内容を要領よくまとめ、さらに風邪との因果関係を明確にしないと、ただ単にオチ一文だけで支えられているという軽い印象しか持てない。難しい素材ではあるが、難しいからこそ“あったること”に忠実に文をまとめるしか打開がないような気もする内容ということで。
【−1】

『帰ってきたよ』

この作品の場合、実話怪談として最も根幹に当たる部分で問題が生じてしまっており、それ故に評価するに値しないという意見である。
この作品の怪異の肝と呼ぶべき部分は、無惨な姿で帰宅した娘さんの状況なのであるが、結局彼女が生身の存在であるのか、それとも既に亡くなった状態で戻ってきたのかという、怪異として最も基本的な確認が全くなされないままで終わってしまっている。亡くなっているにもかかわらず帰宅してきた姿が目撃されたのであれば、純粋な怪異譚として成立することは言うまでもない。しかしながら、娘さんが顔に大怪我をしたにもかかわらず何とか帰宅したという話、即ち帰宅段階で生きていたという話であれば、それは怪異譚ではなく、いわゆる“奇談”の部類に入るであろう。たとえその後最悪の結果となって亡くなったとしても、肝としては「酷い大怪我をしてでも帰ろうという意志が働いて戻って来た」という趣旨の内容になるはずである。最大の問題は、この怪談と奇談のという二つのカテゴリーを厳密に分類すべきであるにもかかわらず、全く確認もせずに話に乗せてしまった点である。娘さんの生死に関する情報がない状況で、「怪談話」として投稿するという発想そのものが、お粗末極まりないのである。娘さんが帰宅した段階で生きているか死んでいるかの差は、怪異譚としては最重要のファクターであることは間違いない。それは超常的怪異が成立するかどうかの境目であるという認識からである。
それと同時に、仮に娘さんが現在どのような状況であるにせよ、この扱いというか、書き方そのものが無神経すぎるのではないだろうか。職場の同僚の噂話を何の検証もなく(一応“口の軽い人ではない”というような釈明はしているが)そのまま書き綴って公開するという、およそ「作品」と呼ぶにはほど遠い意図で編まれた内容であり、その中で悲惨な体験をした人間を面白おかしく取り上げただけにしか見えない。事故に遭った体験者に対する憐れみや同情など一切なく、覗き見趣味全開の己自身の下世話ぶりを書いているとしか受け取れないのである。要するに、テレビのワイドショーで繰り広げられる、悪趣味な事故レポートに限りなく近い印象しか持てなかった。本当の意味で体験者に対する配慮があれば、少なくともこのような軽妙な書きぶりをすることがどのような印象になるかを考えてから、筆を進めるべきであったと思う。
結局のところ、この作品はただの覗き見趣味が高じて面白おかしく他人の不幸を書いただけの内容と、指弾されてもおかしくないものという意見である。さらにその内容において超常的怪異であるかどうかの判断ができない内容を肝に据えており、怪談として認めることが全くできないレベルということでもある。これまでこの大会から登壇した怪談作家各位の怪や体験者に対する思いというものを、もう一度噛みしめてみるべきであろう。
【−6】

『逢魔』

おそらく減点方式で評価すれば高得点、加点方式で評価すればそこそこの得点で止まってしまうだろうという作品。要するに瑕疵は少ないが、それがない分だけ、引っ掛かりも少ないということである。
冒頭の体験者のコメントから、怪異の本題に入るまでの簡単な流れ、さらに怪異の発端から体験者のリアクションと怪異描写を絡ませる書き方に至るまで、ほぼ完全に“怪談フォーマット”と言われるパターンの踏襲である。言葉の一つ一つはそれなりに吟味されているし、あやかしの描写についても、文ごとにはしっかりと捉えていると思うところが強い。それ故に何の破綻もなく読み進めることが出来る。しかし、あまりにもストレスなく読めてしまうために、強烈な印象を持つところにまで至らなかったのが、正直な感想である。
この怪異に登場するあやかしは、間違いなく妖怪でも幽霊でもなく、まさしく“魔”と分類出来る異形の存在である。しかもその登場の仕方は無差別的であり、あまり類例を見ない話であるだろう。ところがそのあやかしの禍々しさというか、体験者自身の恐怖感というか、そういう読み手をギクリとさせるものを文章からあまり強く感じないのである。きちんと整理されあたかも箇条書きのような印象すら持たせるあやかしの描写であったり、合いの手のように小刻みに挿入される体験者の心理描写であったり、とにかくそのあたりの展開が、特にコアな読者ほど心を奪われることなく淡々と読んでしまうことになったように思う次第である。
むしろ印象に残ったのは、実は、あやかしに襲われた体験者が助け出される場面からである。「体験者が意識を失った後に、何も知らない通りがかりの人に助けられる」話が圧倒的に多い中で希少な体験であるが、それが却って完全なフォーマット規格に収まりきらなかった感が強く(書き手はかなり無理をしてはめ込んだという個人的印象がある)、それが良くも悪くもインパクトに繋がってしまったと推測する。特に引っ掛かったのは、体験者を助けた男性の存在。あまりにも立ちすぎたキャラクターであるために、彼の登場によってあやかしのインパクトがさらに薄くなってしまった。実際、男性の登場から後に出てくるあやかしに関する表記はサラッとしたものになってしまっており、ある意味添え物扱いの感がある。極論すれば、この男性の活躍を引き立たせるために、前半であやかしの兇悪ぶりを描いていたのではないかという見方すら出来る。要するに、怪異譚であれば簡単に触れるだけで済ますべき救出の場面で、新たな謎を生み出す存在を提示してきたために、注目がそちらに向かってしまったということになるだろう。いずれにせよ、怪異のインパクトを弱くさせただけで終わってしまったという意見である。
結論としては、平均点を割り込むことは決してない出来ではあるが、コアな読み手を納得させるだけのものは見えてこなかったということで落ち着くのではないだろうか。怪談フォーマットは初心者には便利ではあるが、そこにはめ込むスキルを得ただけでは実力評価は低い。怪異の状況に応じては破格の扱いも必要であるし、読み手の目を惹くためにわざと仕掛けを施す必要もあるだろう。闊達に使いこなしてこそ“力のある書き手”ということになると思う。自分自身で「こう書いてみたら」と思う表現を多用してもいいのではないだろうか。
【+2】