『バス通勤』

読み手の受け取り方次第で、評価がかなり割れそうな印象のある作品である。結論から言ってしまうと、怪異のレベルと体験者の心理描写に何となくギャップがあり、その差を書き手の丁寧さと取るか、あるいは大仰な表記と取るかによって、印象ががらりと変わるように思うわけである。
怪異そのものはありきたりではないし、それなりに不気味な内容である。ただバスの車内、しかも体験者自身には結局何らかの実害も危険もなく終わってしまったところに、怪異としての強烈さが伴わないのは確かである。体験者のリアクションも、それ故に、ひたすら不快感を催すというレベルで推移している。この沸点の低い嫌な感情が長々と続くのが、この作品の一番の印象となる。
体験者の心理的描写についてはかなり書き込まれており、その流れは手に取るように理解出来るレベルであるし、それなりの筆力を持って書き手が綴っていると言えるだろう。しかし、先ほど挙げたように恐怖の極点があまり見えない、むしろジクジクと不安や不快を訴え続けているだけの体験者の心理描写というのは、展開の上でかなり冗長な印象を受けることも間違いない。例えば、あやかしを痴漢と思い込んでその事例を延々と考える部分あたりは、果たして怪異譚としてどこまで書いていいのかという点で、少々疑問に感じるところである。体験者の感情は察することが出来るが、このサラリーマンを不審人物と判断してそれに直面した体験者の心理を事細かに書き表すことに力点が置かれるのは、個人的にはどうしても違和感を覚えた。もしかすると、体験者が最初の段階で霊体であるとは思っていなかったことを強調するためにこのような書き方になったのかもしれないが、あまり効果的ではなかったと思う。要するに、怪異そのものの尺に合った展開とは言いづらいということになるだろう。
ただ逆から言えば、これだけの心理描写があるからこそ、読ませる内容になっているのも疑いのないところである。“あったること”だけ書いていけばちゃんとした怪異譚にはなるが、かなり平板な流れになったはずである。少々大袈裟な部分があるが、ここまで体験者の心理を書ききることで、読み手を引っ張ることも可能であったと認めないわけにはいかない。
良くも悪くも、書き手が作品全体をコントロールして動かしているという印象が強く残った。個人的には、怪異に対する体験者の心理が少々書き込みすぎという意見であるが、それによって怪異そのものの旨味を殺すようなところまでは至っておらず、読み手によっては好意的に評価することもあり得るレベルであると思う。また書き手が文章を書き慣れていると感じるところが大きく、安心して読むことが出来た。全体としてはプラス評価であるという意見である。
【+2】

『よしえちゃん』

小さな子供が見えない誰かと話をすることから始まる怪異譚は、かなり多い。その相手は、身内の霊であったり、たまたま取り憑いた霊であったりすることが多いが、生霊しかも子供の生霊というのは結構珍しいパターンではないかと思う。それ故かもしれないが、何となく薄気味悪い印象を持って読み終えた。
特に気味の悪いと思うのは、現れた生霊が元夫の交際相手の実子だった点である。何故この接点で二人の子供が互いに生霊となって交流出来たのかが皆目見当が付かないわけで、この不条理とも言える内容がこの作品の肝になっていると言える。体験者が咄嗟に禍々しいと口走ったのも納得出来るし、かといって本当に元夫が元凶であれば、子供の世界だけではなく体験者自身にも何らかの怪異が生じてもおかしくないとも思える。ここが実話の持つ絶妙な不思議さなのであるが、この部分に余計な解釈を施していないので、読み手にはモヤモヤとした感触を与えることに成功していると言える。
そしてこれをさらに強烈にさせているのが、最後の子供のコメントである。この種の怪異では子供自身がこのあやかしを覚えていないことが多いのであるが、このケースでは鮮明且つ「よしえちゃん」という子供が元夫の交際相手の子である確信を裏付ける決定打になっている。これを後日談として書き入れることで、この作品は一気にきつい怪異という印象を持つことになる。とにかく実際に起こった怪異よりも、その正体が判然としていく終盤の展開が、得も言われぬ薄気味悪さを作り出していると思う。
このグイグイと引っ張っていく後半部分に対して、前半部分は非常にもたついている感が強い。例えば1行目などは無駄の極みであるし、また体験者のバツイチの事情、子育ての事情についても果たしてここまできちんと説明しなければならないかと思った。はっきり言えば、これらの情報は怪異と直接関係なく、書いてなくても問題ないレベルだろう。個人的には、書き手自身が書き出しで苦労していた痕跡であるという印象である。しかしながら途中からかなり筆が進んでおり、おそらく前半の無駄な情報をつぎ込んでいく書きぶりは、推敲によって解消出来たのではないかとも思うところである。特に書き出しのもたつき感の原因が過度な情報提供である場合、書き手がきちんと書こうという思いが強ければ強いほどやってしまう失敗であるので、後半でこなれているのであれば、確実に推敲で贅肉を削ぎ落とすことが出来るだろう。やはり一話ごとの分量が少ない実話怪談では、あまり周辺事項を書き連ねていくと、その分だけ怪異のインパクトを殺す危険がある。多少の煙幕を張りながら、確実に怪異へ一直線に向かう展開の方が好ましいという意見である。
全体的には怪異の本質を活かした内容であると思うところが大きいのでプラス評価とさせていただく。ただし前半部分の書きようは防げたのではないかということで、さほど大きい加点を控えることとした。
【+1】

『死化粧』

かなりの意欲作である。“あったること”を正確に達意の文章で記録するという王道のスタイルではなく、限りなく小説的な書き方で怪異の本質に迫ろうとしている。結論から言えば、おおよそその目的を達成しているのではないかという意見である。
一番の特徴は、意図的に大雑把に刻まれたと言うべき文である。特に怪異そのものが描写されている部分は、少々説明不足と思えるほど言葉を梳いている。王道のパターンであれば、間違いなくここぞとばかりに密に状況を説明し、大量の描写を駆使して表現する場面なのであるが、必要最小限の言葉だけでザクザクと進めてしまっている。しかし、いくつか疑問に思う部分はあるにせよ、全体的としてはあまり描写不足を感じない。むしろその殺伐とした書き方によって、この祖母の死にまつわるエピソード全体を覆い尽くす負の感情というものが際立っていると思うところが強い。
亡くなった祖母の存在は、おそらく体験者の一族にとっては非常に厄介なものだったのだろうと推測する。随分と寝たきりだった、遺言が履行されなかったという事実もあるが、異様に緻密に描かれた葬儀の場面のいかにも形式的な様子の中に、何か埋めることの出来ない溝のような距離感を覚えるのである。性格的なものだったのだろうか、とにかくあまり周囲からは好かれるような人ではなかったのだろうと、何となく想像してしまった。この空疎な雰囲気の葬儀の描写があるからこそ、亡くなった祖母の霊が大いに暴れ、さらにはとんでもない事態を引き起こしていたという怪異が活写されているように見えるのだと、個人的には思うのである。そして間違いなく達意の説明的文章では得ることの出来ない殺伐とした雰囲気を、独特の文章によって作り出していると評価するところである。
ただし、荒っぽい文だけにどうしても舌足らずな部分もある。気になったのは、体験者の年齢。「子供」と書かれているが、年端もいかない子供と思春期の子供とでは大いに印象は異なる。事の真相を住職にすがって聞き及んだり、祖母への悪感情を抱いていると思える節があるので、それなりの年齢の子供だろうとは推測するが、明確にあった方が全体の雰囲気作りにとっては効果的だったように思う。
また体験者が寝付けなかったという祖母の描写についても、これが体験者が実際に見たものなのか、それとも物音で恐れおののいた中での想像されたイメージなのかがはっきりとしなかった。実際に起こっていると判断出来る物音の怪異とは切り離されて書かれているだけに、どうしても実際にあった現象のようにすんなりと受け取ることが出来なかった。実話怪談としてはこの部分が明確でないと、マイナスダメージが大きいだろう。
そして最後に書かれた、頭蓋骨が祖父のものだろうというくだりであるが、これも唐突すぎて判断に苦しむ。包丁と頭蓋骨だけで十分なインパクトを持っているだけに、この最後の体験者自身の憶測が果たして余韻としてどうだったか、かなり疑問に思うところである。少なくとも一番最後の土葬されたのが祖父であるという情報があれば良かったのだが、どちらかと言えば、読み手の想像に任せるにとどめた方が印象は良かったような気がする。
全体的には、破格のスタイルで表に出てこない雰囲気を作り出すことで怪談としては成功したと思うのだが、実話として重要な要素の部分で舌足らずな面があったのは否めない。ただ個人的には、意欲的な挑戦を高く買ってプラス評価ということで。
【+2】

『雨の日に』

話者自身の怪異体験から、祖母の切ない体験を誘導する形で展開するのであるが、はっきり言ってしまうと、怪異の内容と比べてとにかく話が長すぎる印象である。余計なことがダラダラと書かれているわけでもなく、書き手がジェントル・ゴースト・ストーリーに仕上げようとして、祖母の体験談に力を込めて言葉をつぎ込んでしまっているために、話が膨らみすぎた感がある。
この作品は、祖母の子供時代の怪異体験における強烈な心情があってこそ成り立つのは明白である。亡くなった母親に対する思慕の念、その背中に抱かれた弟に対する複雑な感情、そしてそれらがこの世のものではないことを知るが故の恐怖感。これらの激しく振り切れる感情が一気に交錯することによって初めて、祖母の思いを伝えることができるものと理解する。それ故に、この体験談を丁寧に描写説明する意図は正しいと思うし、それなりの分厚さで読み手に訴えかける必要性があったという意見である。単なる事象の説明や祖母自身の言葉による語りではなく、しっかりとしたストーリー仕立てで体験を表現したことは正解であったと言えるだろう。しかし、その祖母の強烈な感情を事細かに描写する必然性に対して、怪異の内容がいかにも単純でありきたりすぎるのである。そのために、祖母の感情の高ぶりが激しくなっていく一方で、怪異そのものがエキサイティングなものに変化していくプロセスは弱いと感じた。似たような展開の話が多くて、どうしても先が読めてしまうというか、展開の中に引きずり込まれていく感覚に乏しかったわけである。その醒めてしまった感覚によって「話が長い」という印象が作られてしまったように思う。言葉を紡いで迫力あるシーンを再構築させている点では評価できるが、如何せん、怪異の内容そのものがここまで精緻に書くべきレベルのインパクトを持っていなかったところに、何かしらの不自然さを覚えた次第である。
さらに言えば、祖母の体験を完全に挟み込むように話者の体験談が語られるのであるが、これが悪い方向に作用しているように感じた。祖母の体験談と比べるとかなりおとなしめに書いて、多少のメリハリを付けようとしているようにも思うのだが、それでも厚ぼったいという印象である。祖母の体験談で十分熱く語っており、それに別のベクトルからの怪異体験を重ねると、どうしてもお互いの印象が相殺されてしまうような気がする。特に冒頭部分の話者の体験は、メインとなるべき祖母のジェントル・ゴースト・ストーリーの前振りとして大きすぎるように感じる。むしろ、いきなり祖母の昔話から始めて、それが一段落してから話者が墓地で目撃した弟の霊体の話を流し込むことで、祖母の思いに対する回答とした方が落ち着きが良かったのではないだろうか。時系列的には、話者の体験があったから祖母の体験を引っ張り出してこれたのが正論なのであるが、敢えて「読み物」としてのまとまりの良さ、そして何と言っても祖母の切ない怪異体験をより鮮烈に中心に据える目的を考えると、この構成は有りだったように思う。
さらなる工夫は欲しいと思うが、ただ怪異の本質を把握してそれに向かってひたむきな書き方が出来ている点では、なかなか好印象の作品であるという意見である。文調も丁寧であり、それなりに読ませることに成功しているとも感じるところである。
【+2】

『思惑』

タイトルと冒頭の体験者のプロフィールを数行読んだだけで、おおよその顛末は読めてしまった。ただし、最後のエピソードが予想を上回る内容であったのが、良い意味での裏切りであったという印象だけが残った。
この作品の場合、怪異の内容が他人の内面の透視である以上、体験者が“見える”人であることを隠すことは出来ないし、わざとらしく最後まで明確な言葉で書かないのもどうかという意見である。かといって冒頭から「霊感がある」という表記をするかについても賛否が分かれるところである。このあたりは読み手次第の部分であると思うが、個人的には、少なくとも冒頭から明かしてしまうのは若干勿体ない気がする。具体的な能力を描写した後で、さりげなく途中で「霊感がある」という表記を差し挟んだ方が、自然な感じで受け入れることが出来るのではないだろうか。
ストーリーの展開は非常に真っ当というか、面白味がないぐらいステレオタイプの流れであったと思う。この種の能力の持ち主ならではの体験談としては、軽めの能力の披露から始まって、とりわけ奇妙な体験を書いて締めるという構成は王道である。しかも内容的にも深刻さが薄く、多少あっけらかんとした笑いに近いものを盛って読みやすくしているのも、常套手段であると言える。とにかく流れについては、類話を踏襲した形式であると断言してよい。ある意味安定感はあるが、月並みのレベルである。
ただ最初にも書いたように、最後に書かれた怪異の内容が少しばかり珍しいものであり、その部分で評価は少し上がった。おそらく男性の思念がつきまとい、残像として見えたのであろうと推測するが、それがケータイでお断りメールを送った途端にきれいに消えてしまうのは、諦めがいいというか、何とも言えないおかしみになっている。あまりにも現金なリアクションであるが故に、あまり類がないという印象である。(ただし極めて極端な解釈であるが、断りメールを入れてからのあまりの反応の良さに、もしかするとこれらの軟派な男性陣の思念と思しきものの正体が、実は、体験者自身が生みだした邪推の産物ではないかという考えが一瞬よぎった。経験則だけでは測れない解釈が出来るということは、それだけこの怪異がレアであるということである。敢えて書かせていただいた)
文章全体としては、まだ贅肉を落とせる部分もかなりあるように感じたが、冗長であるとか破綻しているとかいう次元ではなかった。評価としては、レアな怪異が含まれている点(ただし心霊学的にディテールの点で興味深いというだけであって、現象そのものはかなりありきたりである言わざるを得ない)を除けば、可もなく不可もなく、悪い意味で平均点の作品ということになるだろう。
【0】

『「2ちゃんねる怪談」の怪』

怪異としては、一瞬のつもりが半日ほど時間が飛んだという感覚に襲われた、プリントアウトされていたはずの怪談話がそこだけ空白になってしまったという内容である。特に特筆すべきは、空白部分が出来てしまったという怪異であり、これは物理的な変化が明白であり、しかも体験者以外にもそれを手渡した本人も確認している。その部分だけ細工をして体験者を驚かそうとした可能性も捨てきれないが、体験者の記憶のたぐり寄せ方、仕掛けたはずの相手のリアクションから想像すると、悪戯の可能性はゼロに近い。あまり派手ではないが、ほぼ怪異が起きたとみなしてよいであろう。
この怪異はいわゆる“伝播怪談”の一種、つまり、ある怪異を見聞きすることで新たな怪異が生じるという怪談話のカテゴリーに属するものであると推測する。ただこの種の怪談は、新しい怪異を引き起こすはずの元ネタの怪異が紹介されているにもかかわらず、読み手には一切何も起こらなかったという叩かれ方をするケースが往々にしてあったわけである。(個人的には“伝播怪談”が絶対的に誰にでも起こりうる怪異であるとは思っていない。人によって感応する場合もあれば、全く気付かない、あるいは伝播することすらない場合もあるという意見である。「自分には起こらなかったから、この話はウソである」と決める人が多いが、霊が見える・見えないと同じ確率であることを考えれば、自分に起こらないからウソであると断定すること自体、おかしな話であると思うべきである。ただ実際にガセである場合もあるし、実は全く違うことが原因の怪異である場合もあることも確かである)
この作品の場合で言えば、結局伝播の元となった怪談話については、書き手自身が核心をわざとはぐらかしているという印象である。おそらく体験者の証言から探そうと思えば出来るのではないか、また実際にプリントアウトした先輩に取材すれば判るのではないかという、非常に思わせぶりな感じで元ネタが提示されている。そして個人的な感想を言えば、この何とも言えないもやもや感こそが、この怪異譚の一つの妙であると思っている。プリントアウトされた怪談話のある一定の詳細を書かなければ、おそらくここまでのリアル感は出なかっただろうし、たとえプリントされた文字群がきれいさっぱり消えてなくなるという不思議を必死に主張したとしても、引っ掛かりはここまで起こらなかったであろうと推測する。かといって実際のネタをばらしてしまえば、過去の“伝播怪談”の悪評の二の舞になる危険もある。結局のところ、「2ちゃんねる」といういかにも胡散臭いごった煮の中から本物の怪異が忽然と現れた、この思わせぶりな書き方こそが、この怪異譚を面白い内容に仕上げた一番の要因だったと思うのである。
怪異の割には少々冗長な説明があった部分もあるが、おおむね読ませるレベルのものであった。ただし、何とも言えない気味の悪さというか後味の悪さを出すのであれば、最後のお寺のエピソード(これで怪異が解決してしまったという印象)を削って、先輩が沈黙を守っている事実のみ書いた方がよかったように思う。いずれにせよ、興味深い作品である。
【+2】

『寿司電車』

仮にこの作品が創作であったならば、これら一連の現象が怪異であると認めることになるだろう。しかし実話である限りにおいては、これらの現象が全て実際に起こった内容であるとしても果たして怪異と言えるかどうかには大きな疑問符が付く。結論から言えば、これが創作と実話の決定的な読み方の相違であると言えるかもしれない。
創作怪談の場合、通常では起こりえない現象がストーリーの中で起こった場合、それらは結果としての怪異に結びついていくことになる。要するに創作怪談の場合、前提として怪異が生じることがあらかじめ決められており、そのストーリーの中で起こる現象は有機的に最終目的である怪異に結びつけられることになる。最初から怪異となることを条件付けられて、不思議な現象は積み上げられていくのである。
この作品で言えば、客が殆ど入らない状況、無人のボックス席に誰も注文していない寿司が届けられる、店長がこの現象を見て舌打ちをする、といった現象が怪異を誘導する内容となるのであるが、あらかじめ怪異で締め括られるという前提があれば、これらは全て霊的なものの仕業であり、それが評判を落として客の入りを減らしていると類推させることが可能になるわけである。最初に結論が決まっているから、それぞれの現象がおそらく怪異と結びつくことになればそのような解釈が可能であろうと、読み手が勝手に思い込んでくれるわけである。
ところが実話となれば、これらの現象が果たして“超常的”であるかを鵜呑みにすることは難しい。むしろ現象としては偶然の産物であり、実は怪異とは全く関係のない単なる思い込みである可能性が浮上してくるのである。創作のような予定調和を主張しても、それはあくまである種の「仮定」のレベルの話でしかない。実話の場合、客観的に誰もが疑いのないような超常現象であることを裏付けることが求められる。特に昨今の実話怪談の場合、厳密にそれが要求される。この作品で言えば、無人のボックス席に寿司が届いたのが電気系統の故障であったという疑いは拭えないし、店長の舌打ちも単なる商品のロスに対する苛立ちだったかもしれない。さらに客の不入りも、時間が書かれておらず、どこまで信用に足るかは不明である。
創作であれば全てが怪異を示唆するものとして許容されることになるが、実話は逆に前提として「本当は怪異とは違うのではないか」という否定的な切り込みからスタートすることが普通である。そのような態度がデフォルトであるが故に、実話怪談は誰もが納得しうる物証を提示して、怪異であることを自ら立証することが暗黙の絶対条件として課せられているのである。結局これらの必要な部分を欠いては、実話怪談のハードルはクリアできないということである。またたとえ怪異であったとしても非常に貧弱な内容であり、怪異そのものの希少性の面でもかなり見劣りする内容であると言えるだろう、
【−3】